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女子用スラックスの高評価に感じる違和感


 福岡市の中学校で女子の制服にもスラックスが来春以降加えられる、という話を朝日新聞が記事化している。朝日新聞では「セーラー服よりスラックス、福岡女子に好評「全然違う」」と見出しを付けているが、同じ記事を転載したハフポストでは「福岡の女子中学生、制服でスラックスも選択可能に。気温対策に加え、性的少数者に配慮」と見出しを変えている。ハフポストは朝日新聞の転載記事に、しばしば元記事と違う見出しを掲げる。全く同じ記事なのに、転載する際に見出しを変える事にはやや違和感を感じるが、両者が注目するポイントが微妙に異なっていることが分かり興味深くもある。
 福岡市が女子用スラックスの検討を始めた理由には、ハフポストが見出しで掲げるように、暑さ寒さへの対応、性的少数者への配慮などが挙げられているが、少し前に制服メーカーが作った「短いスカートによって性犯罪を誘発してしまいます」というポスターに、賛否両論の声が上がったこと(朝日新聞の記事)等を勘案すれば、性犯罪抑止という目論見もあるのかもしれない。また寒さ対策とも関連するが、最近冬によく見かけるスカートの下にジャージを履いている子達のそれを止めさせたい、そんなことをするならスラックスを履かせた方がマシ、のような思いも込められているかもしれないと想像する。

 朝日新聞の記事の冒頭には、
新たに採用される方針の女子用スラックスを評価する声が上がった。
とある。1/23に生徒らも参加して行われた検討会での取材を反映した表現で、好意的な意見が多かったという事が、その後に生徒らの声として詳細に書かれている。恐らく実際に好意的な意見が大半を占めていたのだろう、批判的・否定的な見解に関する記述が記事には一切ない。記事を書いた記者も概ね行為的に受け止めているのだろう。
 確かに、これまで女性の制服がスカートのみだったが、今後はスラックスという選択肢が増えるというのは、それだけを考えれば好意的に受け止められる。しかし個人的には、全面的に好意的に受け止められるかと言えばそうでないし、寧ろ「ちーがーうーだーろー!(©豊田)」という気もしている。暑さ寒さ対策にしろ、性的少数者への配慮にしろ、その理由をスラックス導入の理由に挙げるのなら、
制服は用意するが、着用は自由、着ても着なくてもよい
という制度にするのが最も妥当なのではないかと考える。
 暑さ寒さ対策なんて指定の服を決めない方が手っ取り早い。また、性的少数者への配慮という割に、スカートを履きたい男性への配慮、つまり男性用スカートは加えられないようで、随分と上から目線の配慮だと思える。勿論、他者の目などを考えれば、現在の日本社会では、たとえ性的少数者であっても生物学上の男性が女装もせずにスカートを履くことは、特に学校ではなかなかハードルが高く、男性用スカートを用意したところで履く生徒は殆どいないだろう。しかし、配慮と言うのであれば、女性的な面を持つ生物学上の男性が男性用の制服を強制されることへも、男性的な側面を持つ生物学上の女性への配慮と同様に当然配慮しなくてはならない訳で、女性用スラックスを用意するだけでは「配慮が足りない」と言えるのではないだろうか。勿論これまでの殆ど配慮がない状態に比べれば前進だろうが、配慮の方向性が正しいとは言えないと自分は感じる。

 前述のように、現状では女性的な側面を持つ男性であっても、特に学校ではスカートを履くのは様々な理由で難しいだろう。しかし制服の着用義務がなければ、男性用の服装を強いられることはなく、現状でも出来る本人の望む格好が出来るのではないか。つまり女性用のスラックスを用意しただけでは充分な配慮とは言い難く、全面的に高評価は出来ない。

 制服の着用義務を無くしてしまうと、生徒の服装が乱れ、服装の乱れは風紀の乱れに繋がるのではないか
などと心配する反対派が必ず現れるだろう。しかし果たして「制服がないと風紀も乱れる」は本当だろうか。自分はそんなことはないと考える。2017年11/13の投稿でも書いたように、自分が通っていた地域に1校だけ、日本では珍しい制服のない公立中学校があった。その学校の風紀が乱れていたか、所謂ヤンキーが多かったか? 決してそんな事はなかった。寧ろ制服がある学校の方がヤンキーは多かった。個人的にヤンキー=風紀の乱れと言うのもどうかとは思うが、世間的にそれは風紀の乱れと認識されその象徴とされる。そのようなタイプの生徒が、制服がないと増えるなんてのは妄想に過ぎないと自分は思う。制服が無いとヤンキーが増えるのなら、日本の大学はかなり前から制服着用義務がなかったので、80年代頃のヤンキー全盛期、大学はヤンキーだらけだったろうが、そんな話は一切聞いたことがない。寧ろ制服で縛ろうとするから反発が生まれ、所謂ヤンキー的なファッションが流行ったのではないだろうか。
 高校生の頃、友人が入学した高校はその年から指定の学校ジャージ・体操服を廃止し、好きなジャージ等を用意して体育の授業に参加してよい事になったそうだ。ただ、入学前の制服販売の際に、それまで指定体操着を扱っていた業者が、指定ではなく任意購入のジャージを販売していたそうだ。友達はそれを買わずに中学校の部活で使っていたジャージ等を使う事にしたそうだが、入学してみると、2・3年生は元指定体操着を持っているので9割がそれを着用し、元々は持っていなかった1年生も概ね7-8割程度は制服販売の際に売っていた地味なジャージを着ていたそうだ。この件からも「制服がなくなったら風紀が乱れる」なんてのは幻想にすぎないと強く感じる。

 また、日本の社会にはまだまだ画一性が強く求められる風潮があり、その所為で少数派を無意識的に排除しようとする傾向もある。この傾向は確実にまだまだある。つまり多様性の尊重について決して成熟しているとは言えない社会状況にあると断言できる。その原因には国民の殆どが同じ大和民族であることなどもあるだろうが、個人的には中高6年間制服着用を強要され、その型に収まらないとはみ出し者扱いされることも、そんな社会が形成されている大きな要因の一つだと思う。学校というのは元々多様性に乏しい。同じ地域に住む同じ年齢の者だけが集めれられて、更に中高では同じ格好までさせられる。場合によっては髪形まで強制されることもある。給食のある地域では毎日同じ物を食べることになる。勿論、それらにも利点と言える面は確実に存在するが、学校が、実社会よりも更に画一的な社会であることにも違いはない。
 制服の着用強制さえ止めれば、現在の社会にある風潮は改善されるなんて思っていないが、好ましくない風潮を改善する為の第1歩にはなるのではないか。女性用スラックスを制服に加えるなんてのは単なる付け焼刃、厳しく言えば上から目線で「配慮してやっている」だけで、本当の意味で性的少数者への配慮、つまり多様性の尊重を掲げるのなら、制服は用意するが着用義務を廃止することが必要なのではないだろうか。

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