このところ、憲法学者の木村草太さんが「学校清掃を児童・生徒にさせることは、意に反する苦役からの自由(憲法18条)に反している」と主張しているのをよく目にする。自分がツイッターで彼をフォローしている所為でもあるが、先週のMXテレビ・田村淳の訊きたい放題にコメンテーターとして出演した際にもその論を披露していたし、ハフポスト・1/19の記事「「運動会の巨大ピラミッドに拍手する日本の人権意識はおかしい」 憲法学者・木村草太さんに聞く"子どもの守り方"」の中でも触れている。
個人的には、木村さんが示す人権や憲法に関する見解には共感できることが多く、だからツイッターでも彼をフォローしているのだが、この話に関しては、1/21の投稿でも書いたが、理解できる部分もなくはないが基本的には賛同しかねる。木村さんは「学校清掃が子供たちに強制されている」という点に主眼を置いて否定的であるようだが、集団生活の中では、やりたくない事をやらなくてはならない事も多々あるし、望まない環境を受け入れなくてはならない事も多々ある。勿論どんなことであっても、あまりにも強権的に強制される事はあってはならないが、果たして児童や生徒に学校清掃させることがそれに該当するだろうか。自分にはそう思えない。
ハフポストの記事の中で木村さんは、
子どもたちに無理やり掃除をさせることは、意に反する苦役からの自由(憲法18条)に反しているという認識から始めないといけない。もちろん、掃除当番は、意に反する苦役ではなく、教育の一環として掃除を教えるのだから合憲のはずだという主張もありうるでしょう。しかしそれなら、(きちんと学習効果があるかどうか)『ほうきのはき方のテスト』もしないといけない。必須の道具である掃除機やルンバの使い方を教えないといけないはずですが、そのようなことは教えないでしょう。学校の雑用として掃除をさせるなら、憲法に抵触するかもしれないという緊張感が必要ですとしている。この記事の主題は運動会の巨大組体操の是非であって、ここではあくまで、木村さんが巨大組体操に否定的であるという事を示すための一例として用いられているが、前述のMXテレビの番組やツイッター等でも同じ話をそれ自体を主題として論じているので、巨大組体操の非を説明する為だけの話ということでもない。
自分はこれを聞いて、
- 学校の雑用として清掃させるのが「意に反する苦役」に該当するなら、家庭でお使いや掃除、洗濯、炊事等の手伝いを子供にさせるのも同じことになりはしないか
- 「教育の一環ならテストをしないといけない」と言うが、テストのない科目は美術(一応形式的なテストはある)、道徳(今後はテストすることになりそう)などもある。教育ならテストが必ず必要というのは極端過ぎるのでは
- 教育なら掃除機やルンバの使い方を…と言うが、ルンバはどの家庭にもある訳でない。掃除機は音楽室等絨毯の清掃では学校でも使用する。また、現在木工では主流でない釘と玄能の使い方を、基本として技術の授業では教える。また全ての木工の電動工具・金属加工機械の使用法を教えるのは義務教育だけでは難しい。使い方を教えない掃除道具があっても、だから掃除は教育ではないとは言えない
一番の疑問は最初に示した点で、「学校の雑用」を児童生徒にさせる事が不法ならば、「家庭内での手伝い」が、極端に言えば虐待に当たる恐れが出てくるのではないか。勿論、親が余りにも高圧的・強権的に手伝いを強いれば、意に反する苦役からの自由に反する行為に該当することもあるだろうが、自分が生活していく上で「自分の事は自分でする」「コミュニティ(家庭、職場、学校、地域など)内の雑務はそれぞれ分担して賄う必要がある」という事を教える為には、子どもがやりたくないと言っても、言い換えれば子供が「意に反する苦役」と感じたとしても、ある程度は強制することが出来るのではないか。
例えば、ベランダのない2階以上の窓の外側を清掃させるだとか、冬の寒い時期の水拭きにお湯を使わせずに冷水での清掃を強制するなどの行為や、一部の生徒にだけ清掃を強制的恒常的にやらせる等、方法によっては学校清掃をさせる事も「意に反する苦役」になる恐れはあるだろうが、全ての学校清掃が「意に反する苦役」に該当する恐れがあるという木村さんの見解は、自分には逆に教育上よろしくない考えなのではないか?と思える。「やりたくないことは何もやらなくていい」という感覚を助長することにもなるのではないか。
以前にも書いた気がするが、前に働いていた職場には、整理整頓が苦手で自分が飲んだペットボトルや缶を飲みかけでそのままにする上司がいた。ここでは上司なのか同僚なのか後輩なのかはさほど重要ではない。自分が使ったものを片付けられない人がいたという事が大事な点だ。自分はいつもその飲みかけを排水溝へ流してペットボトルや缶を片付けていたが、ある時「これからは自分で捨てて下さい」と言ったところ、彼は「気づいた奴が捨てればいい、自分も気づいた時は自分のでなくても処分する」と言い放った。自分の使ったものを処分しない者が、他者の放置した缶などに気が付いて片付けるだろうか。もしかしたらごく少数そんなこともあったのかもしれない。しかし恐らく1,2回程度を自慢げに言っているだけだったのだろう。職場に清掃担当のスタッフがいなければ、自分達で整理整頓・清掃をせねばならず、「やりたくないからやらない」では済まない。やりたくなくてもやらなくてはならない。
木村さんなら「清掃スタッフがいれば何も問題はない」と言いそうだが、金銭的な理由で清掃スタッフを雇えない職場は確実にある。また、どの家庭でもお手伝いさんを雇ったり、清掃をアウトソーシング出来るわけではないので、掃除等の雑務はやりたくなくてもやらなくてはならないし、親が子供に、先生が児童生徒に掃除をさせる事で掃除のノウハウを教えるのは何もおかしなことではない。掃除にテストはないが教育の一環である側面は確実にあるだろう。つまり流石に学校清掃が全て「意に反する苦役」に当たるというのはあまりにも極端だと考える。
しかし一方で、1/21の投稿でも書いたので詳しくはそちらを読んで欲しいが、自分は学生の頃「先生らも自分達生徒と同様、職場として教室や学校施設を利用しているのに、なぜ生徒にやらせるだけで自分達は掃除に参加しないのか」と感じており、教員が指示・命令するだけで掃除に参加しないようであれば、木村さんの言うように「子どもたちに無理矢理掃除をさせる事」に該当し、憲法に抵触する恐れも出てくるかもしれないとも思える。連合艦隊司令長官として有名な山本五十六は、
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじと言ったそうだ。
全員が全員ではないが、教員によっては生徒を奴隷か小間使いのように扱い、支配者のように振舞う者もいないわけではない。特に体育会系の部活ではそんな場合も多い。教員だけでなく先輩から後輩への強要や、忖度するように仕向けた実質的な強要が行われる場合も多々あるだろう。前述した、冬の寒い時期の水拭きにお湯を使わせずに冷水での清掃を強制するなど不必要な精神論に基づく学校清掃や、部活動で先輩が後輩にだけ清掃を強要したり、教員が生徒・部員などを小間使いのように扱う場合などは「意に反する苦役からの自由」に反する行為に当たる場合もありそうだ。