フォトジャーナリスト・広河 隆一氏のセクハラを最初に報じたのは、2018年12/25の週刊文春の記事「世界的人権派ジャーナリストに性暴力疑惑 7人の女性が証言」だった。彼はこれまでパレスチナ問題や薬害エイズ問題、チェルノブイリや福島等原発や核の問題などを取材してきた。所謂人権派と認識されていたことから、この件は大きな注目を浴び、実際にどんなセクハラ行為・加害行為・被害があったのかも、複数のメディアを通じて多く報じられた。
BuzzFeed Japanは昨日「広河隆一氏の性暴力被害やハラスメント 相次ぐ告発、相談窓口も」という記事を掲載した。この記事を読んで、勿論これまでのいくつかの報道の内容も勘案して、自分はこんな風に感じてしまった。
なんでこんなに酷いことが起きて、複数の被害者がいたのに、今まで誰も声を上げなかったのだろうか2017年以降のMeTooムーブメントの中身を勘案すれば、こんな見解はある意味で馬鹿げているということは分かっている。声を上げさせないような心理的な圧力がかけられていたんだろう。しかし率直に「何故…」という感覚に陥ってしまった。
そう感じられてしまう背景には、「(これまで女性たちが)我慢し黙認してきたことが最悪の結果を生んだ」「私たちの世代がちゃんと声を上げていれば、社会も少しは変わっていたかもしれない」(上野千鶴子さんが書いたWebronzaの記事「セクハラの被害者が声をあげはじめた」より)、つまり、声を上げなかった事で更なる被害者を産んでしまった、と感じている女性・セクハラ被害者が少なからずいるという事がある。しかし同記事には、
だからと言って被害者に名乗りをあげよ、と要求することが不適切なのは言うまでもない。名乗りをあげることで支払わなければならないコストが大きすぎるからだ。ともあり、山口 敬之氏によるレイプ被害を実名を公開して訴えた伊藤 詩織さんへの誹謗中傷が決して少なくない事、少なくないどころか、この記事を書いている時点で”伊藤詩織”で検索すると、彼女を揶揄する検索ワードが提案されているなど、現在の状況を考えれば、セクハラ加害者を告発することには2次被害の恐れが確実にあり、告発した被害者に心無い言説を浴びせる者がいる事は否定できず、「何でこんなになるまで黙っていたんだ!」と批判することが適切ではないのも事実だ。
セクハラを無くす為には、被害があったらそれを訴えてもらわなければならないが、被害者にそれを促す為には、被害者が相談しやすい環境や窓口を、社会全体で充実させる努力をしなくてはならないという認識を、当然女性だけでなく男性も含めて全ての人が持たなくてはならないというのは大前提であり、それを忘れて被害者に告発を強制するような事をしてはならない。
昨日の投稿でも書いたように麻生爺さんはまたしても問題発言・「子どもを産まなかった方が問題」で批判を浴びているが、「誤解を招いたのなら撤回する」なんて見解を示すなど相変わらず反省している素振りは一切ない。この発言が大きな勘違いであること、政治家・特に副総理大臣という立場の人間が口にするべき事ではないのは疑いようもないが、彼はこれまでも、昨年だけに限定しても頻繁に問題発言を繰り返してきた。昨年彼が言い放った言葉の中には、財務省福田前事務次官のセクハラ問題を前提とした、
- (次官がセクハラ被害を訴えている女性に)はめられた可能性は否定できない
- セクハラ罪っていう罪はない
社会全体の機運・認識を是正しなくてはいけない状況にも関わらず、国の実質的なNo.2である副総理大臣が、率先してセクハラ被害者を誹謗中傷するようなことを言っていたら、状況が更に悪化する恐れがある。悪化はしなくとも、合理的な根拠も示さずに被害者を揶揄する人達がつけあがるのは避けられず、確実に状況は改善しない。
にもかかわらず、未だに麻生爺さんを副総理兼財務大臣に起用し続ける首相や、その人事を承認している自民党・公明党の気が知れない。しかし「セクハラ罪っていう罪はない」に関しては、閣議決定をするような首相・内閣・政府だし、彼や内閣・政府に異議を呈さないという事は、自民党の政治家らは概ね麻生氏と同種の人達なのだろう。
そんな副首相・首相・党であるにも関わらず、選挙の度に国民がその党と現首相を信任しているのだから、ある意味で、現在の日本でセクハラ被害が減らないのは仕方のないことでもありそうだ。勿論それは皮肉であって、決して「仕方ない」で済むような話ではない。
男性も含めて「自分は被害に遭ったことはないから関係ない」と思うのは大きな間違いだ。男性だってセクハラ被害に晒される恐れはあるし、セクハラ以外のパワハラなら被害に遭う恐れはもっと高い筈だ。誰にとっても明日は我が身であることに間違いはない。また、自分は被害に遭っていないから関係ない、という思考は、消極的にではあるが、加害者に加担する行為である。「いじめを傍観するのはいじめに加担するも同じ」である。