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任意・強制・大衆・衆愚


 「任意」とは何か。コトバンク/デジタル大辞泉によると、
 思いのままにまかせること。その人の自由意志にまかせること。また、そのさま。「任意に選ぶ」「任意な(の)行動」「任意の点AとBを結ぶ線」
とある。「無作為に/ランダムに」のようなニュアンスもある表現だが、基本的には「強制」と対をなすような意味の表現として用いられる。例えば、部活への所属は任意としている学校がある一方で、何かしらの部活へ所属することを強制している学校もある。現在の状況はよく知らないが、少なくとも自分が中高生だった頃は部活動参加が任意の学校も強制の学校も存在した。
 しかし日本人の一部には、この「任意」の意味を適切に理解出来ない者がいるようだし、個人的にその割合は、決して少ないとは言えないと感じる。


 そう感じたのは、
というツイートが話題になっていたからだ。このツイートではバレンタインデーについて任意の名の元で、賛同を実質的に強制された件が語られているが、似たような事が日本の企業や学校、地域コミュニティではよく起きる。

 例えば、業務ではない筈の忘年会の参加を暗に強制されたり、百歩譲って忘年会はいいとしても、2次会への参加を強制されるなんて事はしばしば起きる。個人的には「忘年会なんて絶対行きたくない」とまでは思わないが、会費を自腹で支払わされるようなら参加は遠慮したい。職場の全員がそうとは言わないが、一緒に酒を飲みたいなんて到底思えない人が何人かいるのに、わざわざ金を払ってそんな人達がいる会へ参加したいとは思えない。また、仲のいい人達となら喋りたい事もあるからいいが、そうでもない人達との2次会にも金を払いたいとは思えない。しかし参加しないと「アイツは空気を乱す」みたいに言われる事が日本の企業では多々ある。
 学校でも似たような経験をしたことがある。これは前述のツイートと殆ど同じことだが、高校などでは文化祭などを機に、誰かが「クラスTシャツを作ろう」なんて言い出すことがある。オリジナルTシャツの作成は枚数によって価格が変わる方式の業者が多い。デザインのプリントには版が必要になり、例えば版代が1万円、Tシャツ+プリント代が1500円だとすると、1枚だけTシャツをつくれば1枚当たりの代金は1万1500円だが、20枚Tシャツを作れば版代を20枚で分割できるので、1枚当たりの代金は2000円となる。要するに枚数を作れば作るほど1枚あたりの単価が下がる。業者によっては単純に版代を作成枚数で割るのではなく、例えば1-10枚なら1枚○○円、10-30枚なら1枚○○円のような価格設定をしている場合もある。
 クラスTシャツの購入なんてのはクラスを仕切っているグループが言い出す事が多く、彼らは、自分達が思っていることはクラス全員が思っている事のような思い違いをしていることも多い。購入を希望しない者が意外に多く、それが価格の分岐点に近い場合などに、購入を希望しない者に対して「買わない奴の所為で値段が高くなる」みたいな事を言い出す事がある。また任意である筈のPTAや町内会への加入を、実質的に強制する地域や学校が決して少なくないのも事実である。

 もっと深刻なのは、警察が「任意」である筈の捜査への協力を実質的に「強制」してくることが多々ある事だ。2017年8/23の投稿で書いたので詳しくは割愛するが、任意だと言いつつ、複数の警察官で取り囲みその場からの移動を実質的に制限する、言い換えれば監禁まがいの手法で協力を強制することがしばしばある。少なくとも自分はこれまで複数回そんな場面に遭遇した事がある。
 このような事を書くと「疑わしい事をしなければいい」みたいな事を言う人が必ず出てくるが、自分は疑わしい事をしたつもりなんて全くないし、これまで結果的に捜査への協力を強制された事が何度かあるが、1度も逮捕されてはいないし、当然有罪にもなったことはないし起訴もされたこもない。疑わしい事などしていなくても、こちらの都合など勘案せずに一方的に「疑わしい」とされる場合も多々ある。つまり「疑わしい事をしなければいい」なんて言うのは、「何もするな」とか「人と違う事を一切するな」と言っているにも等しい。それがどんなに馬鹿げていて非現実的な事かが分からないから、軽々しく「疑わしい事をしなければいい」なんて言うのだろうから、結局そう主張する人は自分が不当に疑いをかけられて当事者になるまで気が付かないのだろう。


 NHK・Eテレの本や作家を紹介する番組・100分 de 名著は今週から4回にわたって、オルテガの「大衆の反逆」を取り上げる。オルテガはスペインの哲学者で、大衆の反逆は1930年、ファシズムが広がり始めた頃に書かれた本だ。2/4に放送された第1回では、近代化・産業の発展等を背景に、封建的な社会から民主主義への移行、人口増加が起こり、群衆が以前に比べて力を持ち始めたという時代背景、その群衆をオルテガが大衆と呼んだことなどが冒頭で紹介された。オルテガの言う大衆とは、労働者階級とか、純粋な一般市民のような意味ではなく「平均人」のことで、
 大衆とは、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である
という一節に注目して、番組は紹介していた。
 平等を良しとして重要視することは、個性を抑圧しようとすることでもある。自分と違うものを排除しよう、みんなと同じことが正しい、などと考えるようになる側面もあるという点にも注目していた。更に多数派=正しいという慢心が起きるとも紹介していた。
 冒頭で紹介したツイートに出てくる「お前が参加しないと迷惑」と言ってしまう人や、警察が「任意」と言いながら実質的な「強制」をすることについて、「疑わしい事をしなければいい」と言ってしまう人達は、まさにオルテガの言う「大衆」的な人達だと思えた。

 昨夜のテレビ朝日・マツコ&有吉 かりそめ天国の中で、マツコ・デラックスさんが、「(今のテレビ等では)100人中2人に向けたことをやる人が多い。それでつまらなくなってる」「(文句やクレームを)ネットに書き込むような人はその2人。応援してる98人はわざわざ書かない」と言っていた。人数などの割合は異なるが、これは前述のクラスを仕切っているグループが「買わない奴の所為で値段が高くなる」と言うのと似ていると感じる。
 つまり勿論実際に多数派の場合もあるだろうが、大衆とはその他大勢でも多数派でもなく、実際がどうであれ自分達が多数派だと自負し、場合によっては多数派であることを演出し、言い換えれば多数派のフリをして、多数派である事だけを根拠に正しいと勘違いする人達のことなんだろうと思えた。たとえ日本で多数派であっても、世界的に見たら少数派の場合も多いし、地球で多数派であっても宇宙規模で考えれば…なんてこともあるかもしれない。つまり、多数派か否かだけを根拠に物事の良し悪しを判断するのは必ずしも適切とは言えない。

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