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良くも悪くも言葉は、時には鋭利な刃物以上に人の心に刺さる


 食事を終えた後に下膳する際、洗う手間が減るという理由で、自分は油分のある料理に使った皿を、重ねないで下膳するように心掛けている。皿の底面に油分が付かない方が洗うのが楽だからだ。自宅では勿論、友人宅等で料理をご馳走してもらった時もそうしている。友人によっては「結局洗うんだから一緒でしょ?」と言われることもあるし、「洗う人に気を遣ってくれてありがとう」と言われることもある。ただ、自分としては気を遣っているつもりは全くない。それは染みついた習慣だ。なのでセルフサービスの食堂を利用するときなどもそれは同様だ。食堂等では下膳後食洗器で皿を洗っているだろうから、手間に大きな差はないかもしれない。そして他の人が皿を重ねていても嫌悪感は殆どない。つまり自分がそうしたいからしているだけ、のような側面の方が明らかに強い。


 「洗う人に気を遣ってくれてありがとう」と言う友人がいることからも分かるように、油分が皿の底面につかないようにする為に皿を不用意に重ねない、という行為に合理性を感じてくれる人もそれなりにいるが、これを実践している人には殆ど出会った事がない。皿を重ねずに下膳すると、下膳の為に食卓と台所を往復する回数も多くなるし、使った皿の量が多ければ、下膳した先でも皿を重ねるよりも広い場所が必要になる。つまり、皿の裏面を丹念に洗うのにかかる労力は減るが、下膳にかかる労力は増えるとも考えられるし、台所のスペース的な事情によっては別の面で面倒なことが増える場合もある。そんな理由からか、若しくはもっと他の理由からなのか分からないが、自分の下膳セオリーは確実に少数派である。
 なぜ自分がこのような下膳ルールを実践し始めたか、それは自分でそう思ったからではない。きっかけは小学生の時に母親からそう言われたからだ。しかも優しくそう言われたのでなく、彼女は明らかに怒った口調で「そんな気遣いもできないのか!」というニュアンスをこめてそう言った。少なくとも自分にはそう感じられた。だから自分の記憶にそれが強く残っており、それを今の今まで心掛けている。そして今後も続けるだろう。

 先日久しぶりに実家に帰った際に、自分はいつものようにそうやって下膳をしていたのだが、母親は何も気にしないかのように普通に皿を重ねて下膳していて驚いた。瞬間的に「言ってる事が違う!」という言葉が頭に浮かんだ。食後のお茶を飲みながらその話をすると、母親は「そんなこと言ったっけ?」と言った。自分ももういい年なのに「大人はやってることと言ってる事が違う!」と思った。恐らく当時の母親は、他の何かで機嫌が悪かったのだろう。言っていること自体は決して間違っていないが、必要以上に厳しい口調で、自分に対して「(皿を洗う私に)そんな気遣いもできないのか!」と言ったのだろう。言われたこちらは、その後何十年もそれを続ける程記憶に残っているのに、彼女はそれを覚えてすらいないという。
 この件に関しては、そう言われた事は何もマイナスではなく、今では、自分はその心得を教えてもらって良かったとすら感じている。しかし、これがもっと理不尽な話だったらどうだろうか。理不尽な話で母親にキレられていたらどうだっただろうか。多分心の傷になっていたんだろうと思う。そう思うとちょっと怖い気もした。


 コミュニケーションの中では、自分の発した言葉が、自分の意図とは違う形で受け取られてしまうことが多々ある。その原因は、表現が言葉足らずであるなど、表現する側の配慮が欠けていることにあることもあれば、受け手が表現の全体ではなくある一点だけに注視し、過剰に反応してしまったり、歪曲して解釈し起きる事もある。だから言葉を発する側・受け手のどちらかが一方的におかしいと短絡的に判断することは不適切で、それぞれのケースによって適切な判断をする必要があるだろう。
 しかしそれでも、概ね人格否定と受け取られるような表現を用いる場合などは細心の注意が必要だ。つまり、言葉を発する側の責任が、受け手よりも大きい場合の方が多いと自分は感じている。3/10に放送された日本テレビのドラマ・3年A組-今から皆さんは、人質です-の最終回の中でも、SNSへ気軽に心無い言葉を投稿することの危険性が指摘されていた。投稿者は「自分の思った事を率直に投稿しただけ」と思っていても、それが思いがけない影響を引き起こす事はしばしばある。被害者が多大な不利益を被るような、明らかな事実誤認に基いた誹謗中傷をした場合などは、たとえ投稿者にその意識がなかったとしても、自身の人生をも狂わせることにもなりかねない。

 3/7の投稿「「いじめはだめだ」を否定する大人達」 でも指摘した、ハフポストの記事「東京新聞の望月衣塑子記者を支援する署名をネットで集めた中2、誹謗中傷に「子どもが何か意見しちゃいけないんだと感じた」」のひどいコメントの中に
  •  典型的な頭おかしい親やないか
という、人格否定としか思えないものがあったので、これをコメント欄の機能を提供しているFacebookへ報告したところ、Facebookからは「頭のおかしい親という表現は、誰かの外見や人格をけなすようなコメントという規定に違反するものではない」という回答が返ってきた。1枚目はそのコメントが投稿されている事を示したスクリーンショット、2枚目はFacebookの返答のスクリーンショット、3枚目は無加工の記事のスクリーンショットである。



「頭のおかしい親」という表現が直ちに人格否定に当たるかと言えば、稀にそうではないケースもあるだろうが、この記事の内容と、合理性のある根拠も示さずに「頭のおかしい親」という表現を用いている点を勘案すれば、明らかな人格否定に当たると自分には思えるのだが、どうもFacebookの基準ではそうではないらしい。Facebookが示した判断は、本当に日本語話者が行っているのかどうか疑いたくなるレベルだ。
 Gigazineは3/9に「Facebookのアクティブユーザーはアメリカだけで1500万人も減っている」という記事を掲載している。記事は、Facebookのユーザーデータ保護、つまり個人情報の取り扱いに問題性を感じて離れるユーザーが増えているのではないか、という論調だが、このような人格否定や差別に関する表現を野放しにしていることもFacebook離れの原因なんだろうと強く感じる。


 昨年、塚原千恵子女子強化本部長や塚原光男副会長からパワハラを受けたと、体操・宮川紗江選手が訴えたことに対して、日本体操協会の特別調査委員会は宮川選手に反省文を提出させたそうだ(ロイターの記事)。もし宮川選手の訴えが全くのでっち上げ、明らかな虚偽の報告などなら、反省文を提出させても大きな問題はないだろうが、間違えとされたら反省文を書かされるようであれば、今後パワハラやいじめの被害者はそれを訴え難くなってしまう。大体どんなパワハラ・セクハラ・いじめ事案でも、加害側は「そんなつもりはなかった」と言うものだ。公に訴える以前の示談交渉の中で、加害側が「そんなつもりはなかった」と言えば、被害側が被害を訴え難くなるようでは困る。体操協会は選手を大事にしない組織なのだろうとしか思えない。日本全国の体操選手が不憫でならない。

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