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「いじめはだめだ」を否定する大人達


 3/4の投稿「「いじめはだめだ」という考えで日本人は必ずしも一致できない」でも触れたハフポストの3/2の記事「東京新聞の望月衣塑子記者を助けたい。中2の女子生徒がたった1人で署名活動に取り組んだ理由とは」。望月記者に対する官邸の姿勢を「いじめと変わらない」と感じた中学生が署名サイトを利用して、官邸の姿勢に対する異論への賛同者を募ったという記事だ。簡単に言えば、いじめを受けた経験のある中学生が「大人のいじめも止めて」という主張をしているという話なのに、この記事のコメント欄は当該中学生とその母親への誹謗中傷で溢れている。
 この傾向はこの記事のコメント欄だけでなくSNS上も同様だ。「いじめを止めよう」と主張する中学生とその母親に対して、言葉による暴力・集団リンチが加えられているというような常軌を逸した、日本人の良心自体が疑われかねない状況だ。


 ハフポストはこの状況を危惧してか、3/6に「東京新聞の望月衣塑子記者を支援する署名をネットで集めた中2、誹謗中傷に「子どもが何か意見しちゃいけないんだと感じた」」という続報、言葉による暴力の横行・集団リンチのような状況を踏まえた記事も掲載したが、その記事のコメント欄が再び同じ様な状況になるという惨状がそこにある。同級生に暴行を加えた動画が元で少年らが逮捕された(毎日新聞の記事「高校生暴行動画、少年4人を逮捕 新潟県警」)のに、中学生とその母親を誹謗中傷する、言葉による集団リンチを加える大人達(当然子どもでも同様)は野放しでいいのだろうか。個人的には、この件に触れない他メディアも、記事を見てスルーする人も消極的にいじめに加担していると思う。

 誹謗中傷の大半は、呼びかけに使用された署名サイトには、「利用年齢は16歳以上」という利用規約があるので、実際に中学生は存在せず、母親を名乗る人物が中学生になりすましている、のような話だ。中には望月記者の自作自演を疑う主張まである。続報にはそれについての明らかな説明・反論もあるが、初報にも「Change.orgはネットで探し当て、母親の助けを借りて署名を募った」とある。もし母親の主体的な利用でないなら規約違反になるのだとしても、それは規約違反の恐れがあるというだけであって、それだけで「なりすまし、中学生など存在しない」と断定するのは無理がある。他にも幾つかの種類・方向性の中傷があるが、それらは概ね続報記事でまとめられ、それに対する反論も示されている。(追記:この投稿を書いた後にハフポストは「東京新聞の望月衣塑子記者を支援する署名集めた中2の女子生徒、「規約違反はない」とChange.orgが回答」も掲載、規約違反はないという当該サイトの見解を示した。)
 また、現在は18歳になっているが、幼少期から子役や声優として活躍し、且つ中学生頃からはブログ・SNSなどで社会問題等へも言及してきた春名 風花さんなどを例に、「政治的な主張をするなら顔を出せ・実名で行え」というような批判をする人もいる。この中学生を批判、というか批判とは到底言えないレベルの誹謗中傷をしている人達の大半は顔も実名も出していない人達なのに、一体何に噛み付いているのか理解に苦しむ。初報には「誹謗中傷や嫌がらせを恐れ、「山本あすか」と仮名を使った」と書かれている。そしてその危惧は現実になっている。顔や実名を出すべきだと苦言を呈するべき対象は、寧ろ誹謗中傷をしている人達だろう。

 もし万が一この一連の行為が、母親なる人物、若しくは他の誰かでも構わないが、中学生という存在を、注目を集める為にでっち上げたというのが事実だったとしても、それが事実である、つまり「中学生は存在しない」という合理的且つ整合性のある根拠を示さずに他者を誹謗中傷する行為を正当化できる筈がない。勿論、注目を集めようという意図の下で存在しない架空の中学生をでっち上げていたのだとしたら、それはそれで、事態をより複雑化させるだけの批判されるべき行為ではある。しかしそれと、明確な根拠もなく誹謗中傷でしかない批判とは到底言えないレベルの言葉の暴力が許されるかどうか、はまた別の話だ。

 更にこんなツイートをしている人もいた。自分が見たこの件に関連したツイートの中で、最も大きな勘違いに満ちていると感じたのがこのツイートだ。
確かにSNS、SNSに限らず実社会でも、論を唱えれば当然反論を受ける場合もある。しかし、適切な反論は決して攻撃ではない。この件について、というかこの件以外でも、一体どこの誰が「子どもの主張には反論してはいけない」と言っているのだろうか。少なくともこの件に関して、このツイートの前提になっているハフポストの記事では、記者も母親も中学生も「誹謗中傷は看過できない」と言っているだけであって、「子どもの主張だから反論するな」なんて一切言っていない
 また、彼の「攻撃」「殺伐としてますから」という表現を勘案すれば、彼の言う「攻撃」とは誹謗中傷を指しているようにも見える。「だからこそ、大人になってから意見を言う必要があるんじゃないかなと思うのです」というのも、誹謗中傷を受ける恐れがある、傷つく恐れがあるから大人になってから自己主張しろ、という意味なのだろうと考えれば、彼の言う「攻撃」とは誹謗中傷であると言えそうだ。だとすれば、「「子供だから攻撃しないで」は通用しないです」という主張は全く正しくない。何故なら「子供だろうが大人だろうが、対象が誰であろうが誹謗中傷をしてはいけない」のが大前提の社会のルールだからだ。他者の人格を否定するような行為が許される筈もない。彼の主張は、反論と誹謗中傷を区別せずに論じている点、そして大人に対する誹謗中傷ならあたかも許される行為かのような前提に立って論じている点で適切とは言えない。

 そんなことよりも何よりも続報記事の中にある、
 学校の子ども同士でも「なんか変だよね」「怖いね」「大人って平気でいじめるんだ」と話題になっているようです 
という話が全てを物語っているように思う。もし万が一、当該中学生は存在せず、母親なる人物、若しくは他の誰かがこの話を丁稚あげていたのだとしたら、それはそれで残念だが、それとは関係なく、今の官邸の対応・国会での政府関係者らの答弁・首相らの沖縄基地問題に対する姿勢・そしてネットに蔓延る短絡的で大人げない誹謗中傷を、子ども達が見たらそのように、つまり「大人は「いじめはいけない」というのに、自分達は平気でいじめをやる」と感じるのも無理はないと思う。更に首相が平気で嘘をついたり、彼や政府関係者が公文書の改ざんや統計不正を誤魔化し、しっかりと再発防止に努めないようであれば、「都合の悪いことには向き合わず、その場しのぎで言い逃れさえすればそれでよい」と考えるようになる者もいるかもしれない。道徳的に考えても確実に好ましくない状態だ。便宜上子どもに限定してはいるが、政府がそんな姿勢であれば、真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなり、そう考える大人も少なからず現れるだろう。

 このブログで自分はこれまでに何度も書いている
 大人がいじめを止めないのに子供がいじめを止める筈がない 
パワハラ、セクハラ、立場の優位性を悪用した誤魔化し、言い逃れ等大人のいじめが社会から無くならない限り、完全に無くすのは無理でも、減少させられない限り子どもが真に「いじめはいけない」と感じる筈がない。そしてそんな経験の下で育った子どもが大人になって、大人のいじめに手を染めるようでは悪循環はいつまでも止められない。つまりいつまでたってもいじめはなくならない。

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