「平成最後」「令和最初」、更に言えば「平成まとめ」「令和記念」など、改元・新元号にまつわる商売や企画に、天皇の譲位・改元・新元号を一部の政治からが政治ショー化してしまっているようにしか思えない為に好感が持てない、という話を昨日の投稿で書いた。
好意的に受け止められないとしつつ、昨日の投稿でも「平成まとめ」記事の一つを取り上げた。好意的に受け止められなかろうがテレビや新聞、そしてWeb上にも「平成最後」「平成まとめ」が溢れており、どうやっても目に入ってくる。今年のゴールデンウイーク前はまるで、今年を振り返る企画が溢れる大晦日のようだ。カレンダー通りに休めない自分にとって、10連休云々などという話も好意的に受け止められる話でもなく、というか、カレンダー通りに休めない人にとっては、例年平日の部分が平日扱いではなくなるので、寧ろ不便で迷惑とも言えそうだ。
因みに、平成への改元は昭和天皇の崩御に伴う改元だったので、あれもこれも自粛で今年とはベクトルが異なるが不便だった。昭和天皇が亡くなったのは1/7で、当時小学生だった自分にとって1/7は例年であれば冬休みの最終日なのだが、1989年の1/8は日曜日だったので1/9が三学期の始まりだった。天皇が亡くなったのは1/7の朝6時過ぎだったので、その1/7-8の週末・冬休みの最後は盛大な自粛ムードでテレビも追悼関連の番組ばかりだった。せっかくの冬休みを2日間無駄にしたような気分だった。
それでも、呑気な小学生だった当時は、戦前から続いてたこともあって、どことなく古臭くも感じていた昭和という元号が平成に代わるということを、大した理由もなく好意的にも感じていた。63歳以下の人、つまり殆どの人が初めて体験する改元ということもあったし、当時はバブル景気の絶頂でもあり、大した理由もなく高揚していた人が多かったように思う。平成から令和への改元で若い人が浮かれているのも、「初めてだから」が理由かもしれない。
因みに「小学生だったらバブル景気なんて大して関係ないだろ」と思うかもしれないが、当時は羽振りのよい人も多く、友達と遊んでいて、その友達が家族と買い物に行くというのでそのままついて行ったりすると、友達がおもちゃ等を買って貰うと自分も一緒に買って貰えるなんてことがしばしばあった。自分はそれでサッカーボールやスケートボードを手に入れたし、友達のお爺さんにラジカセを買って貰ったという友達もいた。兎に角、天皇崩御を補って余りあるくらいの景気のよさ、社会の明るさがあった。日本の株価が最高値・3万8915円を記録したのは1989年12月のことだ。しかしその翌年・1990年の10月には2万円を割り込むことになるのだが、当時は誰もそんなことは当然知らなかった。
改元について書いていたら、自分も「平成のとても短い良かった期間のまとめ」みたいなことを書いている。好意的に感じようが感じられなかろうが、改元が行われれるという事実に変わりはなく、その現実からは逃れられないので向き合うしかないのかもしれない。
結局昨日に続いて「平成まとめ」記事を読んでーという話なのだが、昨日目に付いたのはハフポストの「政治家の“失言“で見る平成史 「神の国」から「復興以上に議員が大事」まで」という記事だ。この記事を読んでまず感じるのは、
失言と報じられるものの多くは失言でなく「本音」であるということだ。 コトバンク/大辞林によれば失言とは「不都合なこと、まちがったことなどをうっかり言ってしまうこと。また、その言葉」とある。つまり、本音なのか勢い余ってつい言ってしまった事なのかは問わず、「言うべきではないことを言う」というニュアンスだろう。しかし、この記事に並べられた発言の多くや、近年失言と報じられる言説の多くは、つい口をついて出た本音の場合が殆どだと感じる。それを失言と報じるのは「思ってないけど勢い余ってつい言ってしまった事」のように矮小化してしまう側面もあるのではないか。
失言を指摘された際に「誤解を生んだのだとしたら申し訳なく思う」などとして、謝罪・撤回すればチャラになるような風潮が、政治家を中心に昨今蔓延しているが、決して好ましくない風潮のように思う。政治家が自分の言葉の重みを自ら棄損している様でもあるし、何を言っても撤回すれば概ね済んでしまうような状況では、いじめをしつつ「いじめのつもりはなかった」とか、強制わいせつ行為に及びつつ「犯罪の認識はなかった」とか、そんな責任逃れが蔓延することになりそうだ。というか寧ろ既にそうなってしまっていないだろうか。
失言報道があると、その人物を良く知る人などから「本当は思いやりのある優しい人」のような擁護がほぼ漏れなくなされる。人間には多かれ少なかれ情があって、家族や友人など、自分に近しい人の評価は過大になりがちだ。逆に言えば、自分とあまり関係のない人に対しては厳しく評価する場合も多い。
例えば、前述の記事で取り上げられている杉村 太蔵さんの「早く料亭に行ってみたい」「これで念願のBMWが買える」「真っ先に調べたのは国会議員の給料ですよ。2500万円ですよ」などは、確かに政治家に相応しい当選の弁ではないかもしれないが、謝罪に追い込まれるべき内容だったかを考えると、法に触れたわけでもなければ誰かを傷つけたわけでもないし、「この若造は生意気だ」的な、関係ない人の発言のような発想に基づいて必要以上にバッシングが強くなったようにも感じる。しかし「女性は子供を産む機械」、(東日本大震災を前提にした)「やっぱり天罰」「津波を利用して我欲を洗い落とす」「まだ東北でよかった」「復興以上に議員が大事」などは、明らかにその発言によって蔑まれたと感じる者がいるのに、近しい人の発言として必要以上の擁護があったとも言えないだろうか。
果たして「本当は思いやりのある優しい人」が、しかも演説や国会での議論、そして立法に携わるという、文章による表現をその生業の大きな柱とする政治家が、一部の人を蔑むような表現をするだろうか。自分には思いやりに欠けているからそんな発言をしているようにしか思えない。自分に近い人間であればこそ、そのような発言を庇うのではなく厳しく断じるべきではないだろうか。
多くの人は自分に近い人には甘く、遠い人には厳しくなりがちだ。しかしよく考えてみて欲しい。
自分と関係のない人間など1人もいないという事を。
どういうことかと言うと、誰もが自分の家族や友達などを親しい間柄と捉える。例えば血がつながっていなくても家族と結婚した人を、多くの人は家族と捉えるし、友達の友達と、元の友達以上に仲良くなることだってあるはずだ。所謂コネクションという概念なのかもしれないが、世界中のどんな人も、家族の友達の親戚の同僚の結婚相手、等のように何かしらの繋がりを見つけられるはずだ。「近い/遠い関係」というのはあるかもしれないが、自分と全く関係のない人などこの世に1人も存在しないだろう。
つまり、自分と関係が近いから擁護する、遠いから厳しく評価する、若しくは不当に評価する、のような価値観には疑問を感じるということだ。関係性が近い/遠いは確かにあるが、近いと遠いの線引きは誰もが自分で決めているだけである。寛容な人は近いの範囲が広いのだろうし、不寛容な人は近いの範囲が狭いのだろう。
勿論、人付き合いが苦手で近いの範囲が狭いという人もいるかもしれない。しかし近いの範囲が狭くても寛容な人はいる。つまり近いの範囲が狭い事自体に問題性がある訳ではなく、近い人を極端に贔屓し、遠い人に極端に冷たくなるような感覚に問題があると考えている。また、遠い関係の人の事を「関係ない」と認識するような事にも問題はあるだろう。
と言っても、1人の人間が世界中全ての人の問題や痛み・悩み・苦しみを自分のこととして捉えるのは到底無理だ。自分でも少しまとまりがない事を書いているようにも思うが、何が言いたいのかと言えば、関係性の近さ/遠さで評価の基準が変わるようなことは避けなければならないということだ。人間には誰しも少なからず情があり、別の視点で考えれば情は人間が人間である最大の要素でもあり、全く情を排した判断というのも難しそうだが、情に偏った判断というのは弊害も多く、常に注意を払う必要がある。