2018年の大晦日に「平成最後の、という枕詞が飛び交っている」という話で始まる投稿を書いた。その時から、これから後4か月「平成最後」が飛び交うんだろう、と思っていたし案の定それが続いている。更に言えば今後3-4か月は、今度は「令和最初」が飛び交うのだろう、とも思っている。
いくつかの不都合な報道の量を減らしたい人達にとって、改元はかなり好都合で役立ったことだろう。例えば、特定の記者に対して露骨に嫌がらせとしか思えないような態度を示し、記者の背景には少なからず同じ疑問を抱く国民がいるにも関わらず、その記者の質問に対して「あなたに答える必要はありません」などと述べた官房長官が(2/27の投稿)、新元号の書かれた額縁を掲げて発表しただけで「令和おじさん、かわいい」なんて言われるようになり、それを皮肉の一つも込めずに報じるメディアも決して少なくないのだから、利用価値はさぞ大きかったのだろう。
そんな様子を見ていると、自分は「平成最後」も「令和最初」も、それに乗じたような商売も報道も、あんまりいい気分で受け止められない。勿論、4/4の投稿でも書いたように、好意的に受け止め改元をある種楽しんでいる人達まで否定したいとは思わないが、「政治と天皇制の距離をわきまえよ」という、近代日本が犯した過ちから得た教訓を無視し、象徴天皇制の元で政治家が天皇の譲位や改元を政治ショー的に利用することには全く共感できないし、それを助長するような風潮は強く批判したい。
自分が好意的に受け止められないそんな「平成最後」企画の一つとして、神奈川新聞は「平成の事件」という連載を、Yahoo!ニュースと共同で行っている。その連載記事の一つとして、4/23に「警官「シャブ抜き」で事件隠蔽、主犯は県警本部長」を掲載した。
この記事では、1996年に起きた神奈川県警の警部補が覚醒剤を使用した事案を握りつぶした事件を紹介している。これは1999年に発覚した、
本部長の命令に従い、本来は警察職員の不正に目を光らせる監察部門、薬物犯罪を事件化する捜査部門、警部補が所属していた外事課の計数十人が関与し、99年に発覚して9人が書類送検され、当時の本部長、警務部長、生活安全部長、監察官室長、担当監察官の5人が有罪となった事件で、本部長経験者が有罪になったのは全国初。当時戦後の警察史上、最悪の不祥事と称された。という事件だ。本部長とは各都道府県警のトップであり、東京を所管する警視庁で言えば警視総監のことだ。
当時自分は学生で神奈川県に住んでおり、メディアでも「神奈川県警の信用失墜・警察組織全体の信用を著しく棄損した」のように報じられ、自分の周囲でも「(神奈川)県警は信用ならない」という旨の話をよく耳にしたし、自分も理不尽な交通取り締まりや強引な職務質問を何度か受けた経験が当時既にあったことから、同じように感じていた。
この記事を読んで感じたのは、近年も警察の不祥事というのはしばしば報道されるが、どれも警察官個人の問題として処理される事が多い。しかし、実際には個人の問題とは言えないような事案も少なくないのではないか、神奈川県警の事件のように組織性が発覚すると大変なことになる、という認識に基づいて隠蔽が画策されている事案もあるのではないか、という疑心暗鬼だ。
警察というのは犯罪捜査を行う権限を与えられている機関であり、警察内の不祥事を捜査するのも警察だ。検察が調べを行う場合もあるだろうが、基本的には警察の不正を調べるのは警察の監察部門だ。身内を身内が捜査して果たして本当に適切な捜査が行われるだろうか。
昨今は当事者の一方が選定した弁護士等による第三者委員会とか、役所の不祥事などでも当事者が選定した特別監察委員会なるものが、あたかも中立公正な立場で調査を行ったかのような結果を公表することが多いが、例えばいじめ問題の第三者委員会が不合理な調査結果を発表し、後に結果の取り消し、調査のやり直しに追い込まれるなんて事がしばしば起きているし、例えば2018年末に発覚した厚労省の毎月勤労統計調査不正の特別監察委員会がいい加減な調査を公表し、多くの批判に晒されるという事があったのも記憶に新しい。
形式上第三者とされる者の調査でもまともな調査が行われないことが少なくないのに、身内による調査では言うまでもないのではないだろうか。
もう一つ別の観点でもこの記事に感じる事があった。ピエール瀧さんがコカイン使用で逮捕されたことに関して、一部のメディアやネット利用者の間で過剰なバッシングがあり、ピエール瀧さんの所属するユニット・電気グルーヴや、もう一人のメンバー・石野 卓球さんの活動自粛、さらには謝罪まで要求するような見解まで示されていた。そんな傾向はテレビ局で言えばフジテレビ、番組で言えばバイキング、そしてその出演者である坂上 忍さんや東国原 英夫さんなどに強かったように思う(3/31の投稿)。
フジテレビやバイキング、そして彼らにもそれぞれ言い分はあるのだろうが、自分はその件と前述の神奈川新聞の記事を勘案して、
もしピエール瀧さんの件で、所属ユニット・電気グルーヴやそのメンバーである石野 卓球さんの謝罪・活動自粛が必要であるならば、神奈川県警の事件によって、神奈川県警、若しくは警察全体の活動自粛も必要だったのではないだろうかと感じた。更に言えば、日報の隠蔽を複数回起こした防衛省と自衛隊、年金不正や統計不正を犯した厚労省、公文書改ざんという前代未聞の事件を犯した財務省なども同様に活動自粛が必要だったのではないか、そしてそんな風に不祥事にまみれた現政権全体の活動自粛も必要なのではないか、と思えた。
勿論、警察や行政機関の活動自粛なんて現実的ではないことぐらい理解している。しかしそれができないから問題が起きれば誰かが責任を取ることになるし、責任を取らなければならない立場の者はその責任において職務を全うしなけばならない。しかしこの数年、現政権で責任を取らされるのは所謂失言大臣だけである。失言大臣にも問題はあるが、不祥事を見逃してきた大臣らの責任はその比ではない。にも関わらず責任を取らずにその席に居座り続ける者が決して少なくないのが実情だ。
「薬物犯罪に直接的な被害者はいない」という見解をしめせば示せば、彼らのような者は「反社会勢力に金が流れ、その資金によって少なからず被害者になる者が生じるし、コカインならば南米の、覚醒剤ならば北朝鮮などの生産地域で被害者が出る」のような事を言うだろう。そのような話が完全な間違いとまでは言えないが、自分には「風が吹けば桶屋が儲かる」のような話だと感じられる。
流通を全面規制するから反社会勢力が暗躍する側面もあるというのは、戦前アメリカで実施された禁酒法からも明らかではないだろうか。事実として、ウルグアイやカナダが大麻を解禁した理由の一つには、反社会勢力に大麻の利益が流れないようにコントロールする為ということがあるし、嗜好目的では認めていなくとも医療目的で認めたり、軽犯罪化して個人による栽培・所持・使用を黙認する施策が行われる地域が相応にあることの背景にも同じ側面がある。
それらの考え方が絶対的に正しいとは言わないが、4/23の投稿でも書いたように、ドラッグの使用をまるで凶悪犯罪かのように捉え、未だに「ダメ、ゼッタイ。」などと、軽犯罪化・非犯罪化の議論すらタブー視するような日本の風潮は、薬物被害の抑制や流通のコントロールという視点で考えれば、世界的に見て時代遅れであると言わざるを得ない。
そんな風に考えると、音楽アーティストの薬物使用で所属ユニットや別のメンバーにまで責任を負わせるような主張をしている暇があるのなら、もっと他に時間を割いて主張するべき話があるのではないか、としか思えない。ピエール瀧さんの件で、電気グルーヴや石野 卓球さんの活動自粛も必要であるなら、現政権と首相は、少なくとも公文書改ざん事件が発覚した時点で活動自粛、つまり総辞職して然るべきだろう。