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社会の役に立つか否か、という評価基準の危険な側面


 4/2の投稿で「新元号に浮かれている人たちだけをテレビが映しているのは、エイプリルフールに因んだ悪い冗談だろう」と書いた。しかし翌日以降も同じ様な傾向はずっと続いており、決してエイプリルフールに因んだジョークでも何でもなく、テレビ報道の、新元号や、和暦の使用について冷ややかな人達の存在を無視する方針は日増しに鮮明になっている。4/1は新元号が発表されただけで、実際に新元号へ切り替わるのは5/1だ。ということは少なくともあと1か月、実際にはその後少なくとも数週間はこの状況が続くのだろう。テレビという大メディアが、恐らく多数派(実際のところは定かでない)であろう浮かれた人達にだけ注目し、冷ややかな人達が全く存在していないかのような虚構を放送しているのを見るのは、自分も冷ややか派なのでとてもストレスだ。
 「ストレスになるなら見なければいい」という話もあるだろう。勿論極力そうしているが、それでも不意に目に入ることもある。また、民放なら「好みでないなら見なければいい」という話も理解は出来る。しかし強制的に視聴料を徴収しているNHKに関しては「嫌なら見なければいい」で話が済む筈がない


 SNSなどを見ていると、新元号に冷ややか、若しくは否定的な人達の中には、新元号で浮かれている人達のことまで否定的に揶揄したり、場合によっては中傷したりしている人もいる。自分はメディアが概ね浮かれている人達だけしか取り上げない事には疑問を感じるものの、浮かれている人達のことまで揶揄したり否定したりする必要があるとは思わない。だが、「浮かれている」という表現を用いていること自体が既に揶揄だな、と自省し、ここからは「新元号に好意的・肯定的な人」とする。新元号を好意的に受け止める人達が盛り上がってお祭り騒ぎをしている事にはそれ程懸念を感じない。楽しみたい人は楽しめばいいと思う。勿論自分はその祭りに参加するつもりはない。そして参加しないことを「ノリが悪い」「空気が読めない」と言われたら勿論強く反論する。しかし同じ理由で、逆にお祭りに参加することを揶揄するのも好ましくないとも思う。

 4/2の投稿や前段でも書いたように、テレビ報道は新元号に好意的な人しか取り上げておらず、本心か演出かは分からないが、アナウンサーやコメンテーターも含めて、殆ど「新元号に好意的な人」しか出演していないように思う。もしかしたら「空気を読んで話を合わせている」演者もいるのかもしれない。
 とある局のアナウンサーが、最近切符の年月日表記は、外国人観光客の増加に伴ってどこも概ね西暦表記を採用しているが、どこかの鉄道会社(多分JR)が、今月が平成最後の月になるので、記念に欲しがる人を見越して平成で年月日を表記した切符を売り出す、ということについて「粋な計らい」と表現していた。 新元号に好意的な人から見れば、それは確かに粋な計らいに見えるのだろう。しかし冷ややかな自分から見たら、粋な計らいでもなんでもなく、鉄道会社が商機を見出して単に自社の利益の為に切符を売り出したに過ぎない。記念切符というのは、鉄道を利用しないのに切符自体に価値を見出して購入してくれる性質のもので、鉄道会社にとってこれ程美味しい商売はない。しかも新元号や平成最後の○○にあやかった手法であれば、購入者はそのアナウンサーと同様に有難がってくれるのだから、企業のイメージアップも期待でき、一石二鳥とも言えるだろう。
 少し穿った見方かもしれないが、客や利用者のニーズに答えてくれるという意味では、どんな商売も「粋な計らい」だ。人を騙すような手法での商売でなければ概ね「粋な計らい」と言えるのではないだろうか。


 ツイッターのタイムラインにこんなツイートが流れてきた。
このツイートには、この投稿を書いている時点で4万6000件の「いいね」と1万8000件のリツイートがある。4万件にしろ1万件にしろ、日本のツイッター利用者数はおよそ4500万程度だそうでそれに比べれば1/1000程度だが、1万件超のリアクションがあれば世間一般ではバズった、つまり反響が大きかったと認識されるレベルだ。当該ツイートからスレッド化されている彼のツイートを見れば、バズったことによる彼のはしゃぎようがよく分かる。世間一般では確実にバズったとされるレベルの反応がこのツイートに集まっているのを見ると、「つくづくこの国は同調圧力の強い国」だと再確認させられる。「社会の役に立っている」か否かという価値観には危険な側面がある事を、彼や好意的な反応を示している人達は概ね理解出来ていなそうなのが恐ろしい。

 そもそも「社会の役に立っている」の定義とは何か。社会の役に立っていると何かを称賛することも個人的にはあまり好ましいとは思わない。ただ、社会貢献という概念自体を否定するつもりはない。しかし、個人は社会の役に立つことを主目的に生まれたわけでもなければ生きているわけではない。社会の役に立つことを各個人に求めるのは旧ソ連等の社会主義国や、中国や北朝鮮などの全体主義社会的な考え方で、場合によっては社会の為に個人を犠牲にすることが求められ始める危険もある。戦前の日本にも似たような側面があり、「お国の為、天皇の為に」と国民に犠牲が求められた。つまり、社会の役に立つ事を肯定することは百歩譲って良しとしても、何かを「社会の為にならない」と否定したり批判するのには確実に危険な側面がある。
 当該ツイートは新元号を好意的に捉えることを「社会の役に立つ」と言っているだけ、とも受け取れるが、新元号を否定的に捉えることを比較対象に挙げているので、つまり新元号を否定的に捉えることは「社会の役にたっていない」と否定、若しくは批判しているようにも受け取れる。だから自分はこのツイートに肯定的な反応が集まっていることに強い懸念を感じる。
 何かを「社会の役に立っていない」と否定・批判することの危険性は、子どもをもうけない夫婦や、子どもを生まない女性への、そのようなニュアンスでの批判、杉田議員が昨年そう発言して問題になった「同性愛者らには生産性がない」、そして科学や研究への国の予算配分に関する選択と集中、役に立つ研究だけに集中的に予算をつけ、役に立たない研究とされると予算が削られるということの弊害・危険性、役に立つかどうかの判断の曖昧さ、全ての役に立つ研究もスタート時点では役に立つかどうか定かではなかったことなどが、各方面から指摘されていることからも明らかなのに、このような「社会の役に立つ・立たない」という判断基準でのツイートが注目を浴びるというのは、「お祭りに参加しない奴は空気が読めない、ノリが悪い」のような感覚が重視されている、つまり日本社会の同調圧力の強さの表面化なのだろうと思え、残念な気分にさせられる。

 このツイートをした彼は、スレッド化したツイートの中で、

と主張している。つまり「改元によって経済効果が見込めるので、否定するよりも肯定的に捉えるべき」というのが彼の主張のようで、「経済効果がある=社会の役に立つ」という認識のようだ。

 彼が元のツイートで言っていた、改元による「新製品」「新サービスの創出」「関連した新曲の発表」などは、どれも商売に絡むことなので、程度は定かでないが少なからず経済効果はあるだろう。しかしその経済効果の恩恵はどれ程のものだろうか。決して日本人の全てが恩恵に預かることの出来るレベルではないだろう。つまり、それらは改元を単に個人・或いは自社の商売の為に利用したに過ぎず、「経済効果を生む」というのは評価が過大なのではないだろうか。つまり改元による経済効果は少なからずあるが、「社会の役に立つ」というレベルではなく「一部の商売の役に立つ」程度の話だろう。
 また、新元号に対応するのはエンジニアの義務かのようなことまで言っているが、元号や和暦を用いなければ必要のない仕事にかかる人的・時間的コストは、それがなければ別の、もっと必要性のある作業に割くことが出来るという側面も確実にある。つまり必要性の薄い仕事をわざわざ作り出して本来必要な仕事の邪魔をしているだけとも言えそうだ。それで果たして「社会の役に立つ」と言えるだろうか。

 しばしば「新元号によって国民に一体感が生まれた」のような主張を耳にするし、肯定的に受け止めている人達には一体感のようなものが生まれているのも確かだ。しかしその反面肯定的な人達、まさしく彼のようなタイプが、元号や和暦を否定的に捉える者に対して「どうして一体感に共有しようとしないの?空気読めないの?」とやっているのを見ると、決して一体感など生まれていないのに、一体感を生まれたことにしたいから「国民に一体感が生まれた」と言っているだけ、つまり単なる同調圧力のようにも思う。

 元号や和暦の使用によって、全ての日本人、そして日本に関わる外国人、外国企業、組織などに西暦等を使用していれば必要のない余計な計算が強いられる。これは明らかに生産性の向上を妨げるコストであって、必要のないコストを生じさせておいて、それに対応するのに必要なサービスや商品等が創出され経済効果が生まれるので、改元やそれを肯定することは、否定することよりも「社会の役に立っている」と言うのは、ハッキリ言ってマッチポンプ・恩着せがましい話でしかない。どう考えても日本に関わる全ての者・組織に強いられる不要な計算というコストの方が大きいのに、それによって一部の者が利益を生じさせることで発生する経済効果を称賛しろと言われても、とてもそんな気にはなれない。
 厳しく言えば、改元や改元を肯定することは「社会の役に立っている」という主張は、「落書きは社会の役に立っている」と言うのと同じようなものだ。個人的には、バンクシーのような風刺・社会的メッセージ性のある落書きもあるので、「落書き=社会の役に立たっていない」とは言い切れないと考えるが、基本的には「落書き=社会の役に立っていない」は多くの人が頷く話だろう。落書きがなされることによって、落書きを消したり、壁を洗浄するという仕事やサービスが生まれるという側面もある。仕事やサービスが生まれれば当然利益も生じるし、そこには経済効果が少なからず発生する。落書きを消す仕事や壁洗浄サービスは「社会の役に立っている」と言えそうだが、それでも落書き自体や落書きを肯定することが「社会の役に立っている」と捉える人は殆どいないはずだ。万が一国が、落書きを消すサービスの普及・それによる経済効果の為に落書きを促進しよう! というキャンペーンを行えば、多くの人は「何を馬鹿な事言っているの?」と受け止めるだろう。

 たとえ「改元による一体感の発生」という話が事実に即していたとしても、それは「バンクシーのような良い落書きもある」と同程度の話であって、元号・和暦による余計な計算という膨大なコストに比べれば微々たるメリットでしかないのではないか。経済効果云々なんてのも、いくつか例を挙げたように一部の人達が個人的な利益を求めて商売に利用しているだけなのを過大に評価しているだけだろう。その程度のことを背景に、改元の肯定は改元の否定よりも「社会の役に立っている」なんて評価するのは、大げさすぎるにも程がある。前述したように、それはいかにも日本的な同調圧力の強さであって、異なる主張の否定ありきの合理性を欠いた主張で、全体主義的な発想によるものという懸念すらあると自分には思える。

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