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若年層を軽視するテレビ業界と、少子高齢化を軽視し続けた日本社会の共通点


 昭和から平成への改元の時も、テレビは天皇崩御や改元に関する番組一色で辟易したものだ。それはメディアのメインストリームがテレビから確実にネットに移行しつつあり、そして天皇崩御を伴わない今回の改元でも同じだった。昭和から平成への改元に比べれば、自粛ムードがない分いくらかマシにも思えるが、今回は逆にはしゃぎ過ぎのように思える。果たして国民の内にどれ程の割合で朝から晩まで退位・即位、天皇家のこれまで・これから等を見ていたいと思う者がいるのだろう。30年前と比べれば、朝から晩までテレビをずっと見ている国民というのも減っているだろうが、いつテレビをつけても平成振り返り、天皇家振り返り、退位の儀式・即位の儀式しかやっていないようなら、そりゃ「若者のテレビ離れ」は加速するだろうよ、としか思えない。


 若年層の投票率低下が問題視されて久しいが、テレビも結局同じことをしているのではないのか。若年層の投票率低下については、投票率が下がる事で、得票にならない若年層よりも得票になりやすい高齢者向けの政策を重視する政治家が増え、政治家が若年層向けの政策を掲げないから若年層の政治への関心が薄れ、更に投票率が低下するという悪循環がある、という指摘もある。更に少子高齢化が現実のものになってしまった今、若年層は分母自体も少なく、それも政治家が得票を重視すれば高齢者の視点に偏った政策を掲げる事になる理由の一つだろう。
 テレビ各局はこの「若年層の投票率低下・政治への関心低下」について、ニュース番組等で、最早定型句のように軒並み深刻な見解を示すが、実はテレビ各局も広告費の維持、というか広告収入低下を少しでも抑える為に、得票重視の政治家と同じ様に高齢者に寄った番組作り・編成を行っているんだろうということを、この天皇の退位・即位・譲位・改元が行われた2日間の番組表や、4/30-5/1(投稿を書いている5/1昼頃まで)に実際にテレビをつけてみると常に各局が似たような番組を放送していることで再確認させられた。
 ハフポスト/朝日新聞は「テレビは改元一色の番組編成⇨テレ東社長「当然のことながら、他局さんとはちょっと違う味付け」」という記事を掲載している。これは、在京キー局が全て一色になるような事があっても、テレビ東京だけは特別な番組を放送せずにレギュラー番組を放送することが多い、という傾向が前提になっている記事で、4/30-5/1に関しても、テレビ東京の社長は「他とはちょっと違う番組を放送する」と言っている、という内容なのだが、5/1の昼頃までの自分の感覚だと、テレビ東京も他と大して差はないというのが実感だ。

 平成生まれの31歳以下、というか昭和生まれであっても、平成への改元当時3-4歳だった場合にその記憶というか、実感というのは殆どなかっただろうから今年35歳前後の者達にとってはほぼ初めての改元だ。因みにそれ以上の者にとっても、天皇の退位・譲位に伴うお悔やみムードなしの改元は初めての事だ。そんなこともあって若年層の「改元」に対する関心と言うのはそれ程低くはないだろうし、平成初期に幼少期を過ごした者にとって、平成初期を振り返る企画というのは目新しさもあるだろうから、それも決して関心の低い事案ではないだろう。しかし、天皇の退位や即位についても同じだろうか。自分は彼ら若者が天皇の退位や即位に関心を持っているとは思えない
 それは、事前に退位や即位に関する儀式を中継すると発表し、複数のメディアでもそれが報じられていた首相官邸のYoutubeチャンネルの、当該ライブ中継の視聴者数からも明らかだ。以下は、5/1の即位に関する中継が終わっておよそ1時間後の、同チャンネルのスクリーンショットだ。


新天皇の即位に関する中継ムービーの視聴者数は中継終了1時間後で約1万回強だし、前日に中継された退位に関する中継ムービーも、中継後19時間経っても38万回しか視聴されていない。この38万回という数字は、下段の他の中継に比べたら桁の異なるかなり大きい数字ではあるが、日本の国民が約1億2000万人いるのに比べれば極小と言っても過言ではないだろう。Youtube以外のライブ中継機能のあるSNSでも中継を行った事、そして既存のメディアであるテレビもほぼ全ての地上波チャンネルが中継を行っていた事を勘案すれば、この視聴数が当該儀式を見た人の総数ではないことに間違いないのが、誰もが若者のテレビ離れを実感し認めるような状況で、公式中継とも言えるであろう官邸の中継、しかも動画シェアサービスで実質的なNo.1であるYoutubeでの中継がこの数字でしかない事を勘案すれば、若者の、天皇の退位・即位・譲位に対する関心が高いとは到底言えないだろう。
 因みに、2018年6月に内閣府が発表した子供・若者白書 平成30年版(2017年のデータ)の参考資料によると、日本の30歳以下人口、つまり若者人口はおよそ3410万1000人だそう。その分母に対して38万人はかなり少ないし、しかもYoutubeを見ているのが全て若者ではないので、このYoutubeライブ、若しくは事後に通常の動画として視聴した30歳未満の人は更に少ないはずだ。


 こんなにも若者の関心の薄い儀式をなぜ全ての地上波チャンネルが放送するのか。理由はそれだけではないだろうが、それは天皇の退位・即位・譲位に興味のありそうな高齢者を重視した編成を行ったから、という側面も確実にある筈だ。テレビ局が視聴率至上主義に陥るのは決して好ましいとは言えないだろうから、若者があまり興味を持たない儀式だが関心を促す為に放送したという側面がないとは言わないが、しかし別の視点で見れば、テレビ局は分母自体も少なくテレビへの関心も薄い若年層を重視せずに、ある層の視聴が見込める為こぞって当該儀式を中継したとも言えるだろう。
 若年層の投票率低下・政治への無関心について、投票率が下がる事で、得票にならない若年層よりも得票になりやすい高齢者向けの政策を重視する政治家が増え、政治家が若年層向けの政策を掲げないから若年層の政治への関心が薄れ、更に投票率が低下するという悪循環がある、という指摘があるように、若年層のテレビ視聴低下・テレビ離れにつていも、視聴率が下がることで、視聴しない若年層よりも視聴する高齢者向けの番組・編成・放送を重視する局が増え、局が若年層向けの番組・編成・放送を軽視するから更に若年層のテレビへの関心が薄れ、テレビ離れに拍車がかかるという状況もあるのではないか。

 これは少子高齢化問題とも似たような話だ。少子高齢化への懸念は1970年代に既に指摘されていたのに、バブル景気に浮かれる程余裕のあった1980年代には、まだ事態が深刻化していなかったこともあって何の具体策も講じず、その後ずっと目を逸らしてきたが、2010年代以降いよいよ問題が深刻化してから焦っている日本の行政、そして社会全体と同じことをテレビ業界もしているように思える。今は人口のおよそ7割にも上る30歳以上がテレビを視聴し業界を支えているが、その層が今後確実に、そして徐々に減っていくことは間違いない。つまり30代以下の視聴を促さなければ、テレビ各局はどうやっても尻すぼみになるということでもある。
 テレビ各局が何の手当も全くしていないとは言わないが、1980-90年代に比べて子供向けのアニメや番組は極端に減り、シニアが喜びそうな健康・豆知識バラエティなどが確実に増えた。しかもそれらの全てが上質なわけではなく、眉唾な内容を取り上げる番組も決して少なくない。昨今Youtubeの人気チャンネルを見ていると、人気のチャンネルに共通しているのはどことなく漂う素人臭さ、つまり、敢えてか自然となのかは分からないが、親近感が少なからずあるような作りになっていると感じる。しかしそれは個人が個人で作るコンテンツとして受け止められるからそれが共感を呼ぶのであって、テレビにそれが求められているわけではなく、質が低ければ視聴者にもスポンサーにも敬遠されるだろう。
 若年層を重視しているとは決して言えない今のテレビ業界の状況、そして、ネット発の情報をチェックもせず鵜呑みにする校閲しているのか疑問に思える程おかしな日本語のテロップ・ニュース原稿等が蔓延するなど、過去に比べて明らかに質が下がっている状況も勘案すれば、テレビの未来は決して明るいとは言えない。


 更に付け加えておくと、昨日の投稿でも触れた、2004-2011年にかけての8年間の調査票などの資料を廃棄・紛失していて、賃金統計の再集計ができない状態になっているなど、この数年いくつもの隠蔽や捏造・改ざん・不適切な廃棄が蔓延し、更に都合の悪い事には誠実に答えない、場合によっては無視するような事を頻繁に行う政権を選挙の度に国民が信任してしまう状況も、現状認識が甘く付け焼き刃的に対処している側面の否めないテレビ業界や、少子高齢化を軽視し続けてきた日本の社会全体と同様で、今の内に適切に対処をしなければ、それこそ取り返しのつかない深刻な社会が現実になりかねない。

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