2017年3/31の投稿で、栃木県那須町で登山部の高校生が雪崩に巻き込まれ犠牲になった事故に関して、NHKが記事の見出しにした
8人死亡の雪崩事故 引率教員が勤務の高校を捜索という表現の酷さについて書いた。 登山部を引率していた教員の勤務校を警察が捜査したことに関する記事なのだが、表現があまりに雑で、登山部を引率していた教員が、自らの勤務校を捜索したかのようにも読める表現になってしまっている。
テレビや新聞・Webメディアも含め、勿論それ以外の媒体であろうが、記事を書いてお金を貰う記者というのは、文章や言語による表現を生業とする謂わばプロだ。そして、Web系はやや弱いのかもしれないが、テレビや新聞、それ以外の相応のメディアには校正や校閲という、誤字や脱字、表現や内容の不明瞭さや誤りを、記事が使用掲載される以前に防ぐシステムが十中八九ある。
Web系で校正・校閲が既存メディアに比べて弱い理由には、テレビや新聞よりも訂正が容易である、テレビ・新聞よりも更に即時性が求められ、校正や校閲の徹底よりも即時性の方が重視される、単に既存メディアよりも低予算で運営している、のような事情があるのだろうが、テレビや新聞系のWeb記事は、その多くはWeb以外、つまりテレビや新聞でも同じものを使用しているし、第三者による校正校閲をとばすくらい即時性を重視したのだとしても、記事を書いた後に記者自身が吟味・推敲を最低限しなくてはならないのはプロとして当然で、流石に上記の見出しは酷すぎるとしか言えない。
この手の雑な見出しは、決してWebに限った話ではなく、Web普及以前もゴシップ紙等の質の低い出版物などでは見受けられたし、中にはワザと誤解を生じさせかねない見出しを掲げて注目を集めるという、今でもWebを中心に用いられている手法を行っていた者も既にいたように思う。悪意があるとかないとかは別として、東スポの見出しなどがその典型的な例だろう。
しかし現在のおかしな文章が跋扈している状況の背景には、Webが普及したことによって誰もが情報の発信者になれる環境になったこと、校正校閲を通さない文章が増えたことや、正確性にも増して即時性が問われるようになったこと、日本で最も影響力のあるWebメディアの1つ・Yahoo!トピックスの見出しの13文字という制限や、現在主要なSNSの一つであるツイッターの140字制限の影響も決して少なくないだろう。
そして、Web上でのコミュニケーションは文字・文章で行われるという特性と、若者を中心に新しい略語が生まれやすいという日本語の利用状況が合わさった結果、Web以前は口語を中心に用いられた新しい略語が、頻繁に文字になるようになったという状況の変化、また、Web普及と時期を同じくしてテレビ、特にバラエティ番組を中心に演者らの発言をテロップで表示するという演出が徐々に一般化し、文字表現としては確実に正しいとは言えない口語表現、特に助詞の使用法などが、あたかも正しい表現であるかのようにテロップ化・文字化される状況にもなったこと等も、前述のNHKの見出しのような、酷い表現が校正校閲をすり抜ける事態の背景にあるのだと考える。
特によく見かけるのが、助詞「が」を「を」の代わりに用いることと、受動表現「される」を省略した雑な体言止め、そしてその合わせ技だ。これは昨今枚挙に暇がないと言える状況で、流石に全国紙などの新聞記事ではあまり見かけないが、Webでは毎日のように、そしてテレビニュースの原稿、アナウンサーの発言でもウンザリするくらい用いられている。
それらの中にも酷さに程度の違いはあるのだが、例えば、昨今自分が特に気になったはデジカメWatchのこの見出しだ。
ソニーの一眼レフカメラの内臓ソフトウェアの「アップデートが予告された」という記事なのだが、受動表現「される」を省略した体言止めになっている。自分ならこれを表現する場合どうするかと言うと、
ソニー、「α9」「α7R III」「α7 III」の大型アップデートを予告として、「アップデートが予告された」ではなく、「ソニーがアップデートを予告した」という能動的な文脈で表現する。大型アップデートを強調したいのであれば、
「ソニー α9/α7R III/α7 III」の大型アップデートが予告されるでもいい。ソニー製カメラ・α9/α7R III/α7III のアップデートというニュアンスも、大型アップデートというニュアンスも伝わるだろう。ただ、アップデートを告知するのはソニーなのだから、無理に受動表現にする必要性がそもそも感じられない。
デジカメWatchに限らず他の姉妹サイトも含めて、インプレスのサイトでは同様の見出しが多用されているし、この手の見出しを多用しているWeb系メディアというのは決してすくなくない。インプレスや同様にこの手の見出しを多用するWebメディアで校正校閲が行われているのか定かではないが、流石に各サイトに編集長やそれに準ずる立場の者はいるだろうし、少なからず記事に目を通してチェックはしているのだろうから、ということはそれらのサイトでは、この手の見出しは日本語的におかしいと認識されていないということなのだろう。
日本語表現の正誤感、特にジェネレーションによるギャップというのは決して今に始まったことではなく、平安時代の女流作家・清少納言も枕草子の中で、
なに事を言ひても、「そのことさせんとす」「いはんとす」「なにせんとす」といふ「と」文字を失ひて、ただ「いはむずる」「里へいでんずる」など言へば、やがていとわろしと、当時はまだ若者言葉の範疇だったであろう「むず、むずる」という表現に違和感を示しており、およそ1000年も前に、既に若者の言葉の乱れを嘆く者がいたことがわかる。
革新的な日本語学者の中には「時代と共に新たな表現が生まれる等、言語が変化するのは当然で、それは乱れでなく変化だ」とする者もいるし、それはある意味では間違いではないと感じるものの、助詞「が」を「を」の代わりに用いることと、受動表現「される」を省略した体言止めは、確かに全く意味の通じない表現手法ではないが、日本語の元々主語が曖昧な傾向が強い部分を更に助長し、場合によっては誤解が生じる事もあるし、まだ現時点では妥当性のある変化として受け入れられているとも言い難く、一般人が日常会話等で用いるならまだしも、言語による表現のプロであるはずの記者・ジャーナリストが用いるべき文章表現、アナウンサーらが使う適切な日本語表現とは言えないだろう。
昨日も、BuzzFeed Japanが掲載した英語からの翻訳記事の、「生まれたばかりの子犬7匹をゴミ箱に捨てた女性が逮捕」という見出しが気になった。
スクリーンショットの部分だけを見ても分かるように、子犬7匹をゴミ箱に捨てた女が逮捕されたという動物愛護に関する記事だ。この見出しもやはり助詞「が」を「を」の代わりに用いることと、受動表現「される」を省略した体言止めを用いている。その為に、多くの人はそう勘違いはしないだろうが、生まれたばかりの子犬7匹に何か問題があり、一旦ゴミ箱に捨てるという処分を行った女が、それでは処分が充分ではないと思い直し、女がゴミ箱から拾い上げて子犬を逮捕拘束したとも読めてしまう。
このような指摘をすると、「そんな勘違いする奴の方がおかしい、ハッキリ言って難癖を付けているに過ぎない」と思う人もいるだろう。「そんな勘違いをする奴の方がおかしい」という見解が間違っているとは思わないが、「難癖」というのはどうだろうか。まず指摘したいのは、記事の見出ししか読まない人の存在だ。記事本文を読んで勘違いしたままの人は確かにどうかしていると言えるだろうが、記事本文を読まなければ、決して多くはないだろうし、前述のような勘違いをするかは定かでなくとも、「女が逮捕?、女が誰かを逮捕したの?女が誰かに逮捕されたの?」と感じる人は少なからずいるだろう。なぜなら、「が」は原則的に主格を表す場合に用いる助詞だし、動作を表す体言止めも能動表現の省略が基本的な用法だからだ。
また、見出ししか読まない人の存在と、プロによる商業的な媒体での報道であることを考慮すれば、極力誤解を生まない表現である事が求められるはずだ。
生まれたばかりの子犬7匹をゴミ箱に捨てた女性を逮捕とすれば、誤解が生じる懸念を確実に下げられるのに、「を」の代わりに「が」を用いたり、たった3文字「される」を省略するだけで誤解の恐れを生じさせるのだから、このような指摘は決して「難癖」と切り捨ててよいものではないだろう。
生まれたばかりの子犬7匹をゴミ箱に捨てた女性が逮捕される
この「が」を「を」の代わりに用いることと、受動表現「される」を省略した体言止めが安易に用いられがちなのは、本来主格を表す助詞「が」が、例外的に主格以外で「を」の代わりに用いられる場合があるからかもしれない。
例えば「私はケーキを食べたい」という願望を表す表現がある。何を食べたいのか、の「何」を強調する場合、つまり「何でもいいから食べたい」のではなく、「ケーキ」を食べたい場合の「ケーキ」を強調する場合に、「を」の代わりに「が」を用いて「私はケーキが食べたい」と言うことがある。この表現は現在一般的で、これを読んで「(魔法によって生命を与えられたか何かで動物化した)ケーキが(何かを)食べたいと欲している」と誤解する人は殆どいない。勿論誤解が生じる恐れはゼロではないが、ネイティブレベルの日本語話者なら、この場合の「が」はケーキの主格を表してはいないということを概ね理解できる筈だ。因みに主格を表す場合の「が」も、同じく主格を表す助詞「は」よりも主格を強調したい場合に用いられることが多い。
ここからは、前述の「予告した/された」「逮捕する/される」などの表現に合わせる為に、「食べる」を「摂食する/される」というやや硬い表現に換える。「が」は本来主格を示す助詞であり、願望表現以外では基本的に「を」の代わりには用いない。例えば「私はケーキを摂食する」とは言うが、同じ意味合いで「私はケーキが摂食する」とは言わない。ケーキを主語にした場合は受動表現となり、「私によって、ケーキが(は)摂食される」となる。
「ケーキを摂食」と、主語と能動表現(する)を省略し体言止めにした場合は、誰かがケーキを食べたと分かるが、「ケーキが摂食」と、行為の主体と受動表現(される)を省略した体言止めにすると、あたかもケーキが何かを食べたようなニュアンスになってしまい、意味が伝わらなくなる。
なので「女性が逮捕された」ことを表現する場合には、
女性が逮捕と受動表現(される)を省略するのは適切ではなく、
女性を逮捕と、体言止めにするなら助詞「を」を用いて能動表現にする、助詞「が」によって対象を強調したいのであれば、受動表現(される)を省略せず体言止めにしない、のが適当である。
女性が逮捕される
これが、助詞「が」と「を」の混同、受動表現を省略した雑な体言止めを、特に文章表現のプロである記者・ライター・アナウンサーなどが用いるべきではないと言える根拠だ。