よしもと所属のコンビ・カラテカの入江 慎也さんが、同事務所から契約解除されたという話が話題になっている。同じくよしもと所属の複数の芸人の、詐欺グループが2014年末に催した忘年会への出席を仲介したとされたそうだ。
自分はこの件をハフポストがオリコンニュースの記事を転載した「カラテカ入江慎也、吉本と契約解消 詐欺グループ忘年会を仲介」で知った。記事には入江さんや他の芸人らが、どのようなスタンスでその忘年会に参加したのかが書かれておらず、完全ノーギャラ・あくまでもプライベート扱いで参加したのか、所謂闇営業・事務所を通さずに直接ギャラを受け取る形式で参加したのか、形式上でも事務所を通して所謂仕事として参加した案件だったのかがよく分からなかった。
場合によっては事務所にも責任が出てくる恐れがあるのかと思え、入江さんを解雇して一件落着とはいかない事案ではないのかと思えたが、入江さん本人が報道を受けて
— カラテカ入江 (@karatekairie) 2019年6月6日と、 事務所を通さずに他の芸人らに出席を促した、つまり闇営業を斡旋したという旨のコメント(ツイートに添付された画像)を公表したので、事務所に忖度したり、事務所から強制されてこのコメントが公表されたのでなければ、事務所としての責任がよしもと側に生じることはなさそうだ。
ただ、参加した他の芸人は厳重注意処分、カラテカ入江さんだけが解雇処分と、処分の内容に差があるのは果たして妥当だろうか。入江さんも「知り合いの結婚式を兼ねたパーティーだと聞かされていた」と言っているようだし、それは他の芸人も同じで「出席を頼まれた立場で詳細を知らされていなかった」としているようだが、噺家の立川 雲水さんは、この件に関して(明確にこの件とは言っていないが十中八九この件について)次のようにツイートしており、
高額なギャラのパーティー余興ならば芸人は間違いなく主催者及び客層の仕事や属性を知っている筈。パーティーを盛り上げる為とうっかりNGワード等に触れることを避ける為に必須だからだ。— 立川雲水 (@tatekawaunsui) June 7, 2019
どんな場なのかも知らずに忘年会に出席したという言い分は、入江さんにしろ他の芸人にしろ妥当性が低いように思う。これが完全にプライベートな立場でノーギャラでの出席ならば、下調べせずに顔を出しただけという可能性もありそうだが、入江さんがコメントの中で「吉本興業を通さずに」と言っているということは、万が一ギャラが発生していなかったとしても、十中八九「仕事」という認識で参加していたであろうことは間違いなさそうだ。ならば雲水さんの見立ては事実に近いのではないだろうか。
雲水さんは次のようにもツイートしている。
多人数が出席してたパーティーならばその場に居合わせた客なり収監中(かな?)の主催者なりを取材して出演者の言動を調査すりゃ大体のことは明白になるだろう。— 立川雲水 (@tatekawaunsui) 2019年6月7日
自分にも、入江さんに誘われて参加した芸人の中に、雨上がり決死隊・宮迫博之さん、ロンドンブーツ1号2号・田村亮さんらベテランで相応の稼ぎがあると思われる芸人が含まれており、よしもとは、全てを一斉に解雇することになれば、事務所全体のイメージダウン、彼らが出演する番組等への影響によって収益にも直接的な影響が出ることなどを考慮し、入江さん一人を解雇とし、他は厳重注意処分とするという対処をしたのではないだろうか、と思える。この件に関しては、処分の基準に曖昧な部分があり、入江さんには何も問題がなかったとは思わないが、よしもとが彼一人をスケープゴートにしたようにも見えてしまう。大手芸能事務所やスポンサーに忖度して特定の芸人を守りたいならそうやって調べて報道すりゃいいだけのこと。シロならば寧ろ積極的に喧伝するであろう‥それがないってことは‥と思うね。— 立川雲水 (@tatekawaunsui) 2019年6月7日
このような不公平な処分は決してこの件だけの問題ではなく、実はあちらこちらにゴロゴロしている。自分がそれを最も強く感じたのは、当時西武ライオンズに所属していた松坂投手が無免許運転で書類送検された時だ。この件では球団広報課長が身代り出頭するということも起きており、並みの選手なら恐らく一発解雇されていたであろう。しかし松坂選手に課されたペナルティはたった1か月の自宅謹慎だけだった。彼は当時既に球団を代表するスター選手で、そんなスター選手を手放せば観客動員数に強く影響が出ると球団は考えたのだろうし、自分達が解雇しても国内外のどこかの球団が再び彼を拾うだろうとも考えた上での対応だったのだろう。ペナルティを科すこと自体が目的化することには妥当性があるとは思えないが、しかしそれにしても、所属選手の無免許運転に対しての処分が自宅謹慎1か月というのは、いくら何でも軽すぎるように思えた。
また、ここのところ元維新・丸山議員の議員の資質について様々な話があり(5/16の投稿)、昨日・6/6の衆院本会議で糾弾決議とやらが可決されたそうだ(東京新聞「丸山氏糾弾決議、全会一致で可決 衆院、本人は辞職拒否」)。また、5/23の投稿でも触れたように、これまでに幾度も差別的な主張を繰り返してきた長谷川 豊氏に関しても、維新は公認を取り消すとしている(毎日新聞「差別発言の長谷川氏 維新が公認取り消しへ 参院選比例」)。長谷川氏に関して維新は当初、公認取り消しではなく「公認停止」としていた(朝日新聞「長谷川氏の公認停止 維新・松井代表「かばう余地なし」」)。停止ということは「公認再開」を見据えていたとも言えそうで、維新は主体的にではなく世論を見て対応を変えたのだろうとしか思えない。しかも、内容は戦争容認程ではないが、丸山氏以上に不適切な発言を国会内外で繰り返している足立議員は、未だに維新に所属している。
丸山氏への自民党の対応も同様で、当初、「戦争容認」が強く懸念される発言だけが明るみになった時点では、野党側が辞職勧告決議案を検討していたのに対して、自民党は前例を逸脱する等として消極的だった(朝日新聞「「戦争」発言・丸山議員の辞職勧告案、自民は提出に慎重」)。しかしその後わいせつな発言もしていたことや、少女にキスまでしていたという話まで出てくると(デイリー新潮「丸山穂高「女を買いたい」発言の直前に少女に抱きつき、キスまでしていた」)、自民党は急に「糾弾決議」などと言いだした。内容的には辞職勧告決議とあまり違わないのだが「俺たちが主体的」感を出したくてそんな別の名称を出してきたのだろう。
また、この流れを見ていると、自民党は、戦争容認とわいせつの合わせ技一本と考えているともとれるが、自民は戦争容認発言は問題視しておらず、わいせつだからという理由で丸山氏の議員の資質を問ういているようにも思える。何故そのように見えるのかと言えば、現政権の積極的な支持者の一部には、丸山氏のような戦争も辞さないという姿勢に共感している者がいるからだろう。また、自分には丸山氏の「戦争容認発言」が単なる失言とは思えないが、中には単なる失言と捉えている人もいるようで、単なる失言で「議員の資質」を問うということになれば、自民党には杉田氏や麻生氏を始め同じ穴の狢がうじゃうじゃといる為、そのようなことをすると自分達の首を絞めることにもなりかねないという思惑もあったのではないだろうか。ただそれでも、丸山氏の処分に消極的では別の層から不満が出ることは間違いなく、誰もが納得できる「わいせつ」という根拠が出てきたことで、それを好機と捉えて「糾弾決議」と言いだしたように見える。
つまり、結局自民や維新も、よしもとや西武ライオンズと同様に、道義的な側面よりも損得勘定の方を重視して処分を決めているように思う。
6/3に金融庁が、95歳まで生きるには夫婦で年金以外に約2000万円の資産が必要になるとの試算を示し(日経新聞「人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書」)、麻生財務大臣は
100まで生きる前提で退職金って計算してみたことあるか?普通の人はないよ。そういったことを考えて、きちんとしたものを今のうちから考えておかないかんのですよと述べたそうだ(テレ朝ニュース「退職後2000万円不足も 麻生大臣 資産形成考えて…」)。現政権の長である安倍氏は、2007年に所謂消えた年金問題(Wikipedia:年金記録問題)が発覚した当時も首相の座にいた人物で、当時彼は「(消えた年金記録の分は)最後のお一人にいたるまできちんと年金をお支払いしていく」と公約したが、それは10年以上経った今もまだ実現していない。また、現与党の自民公明は、2004年に「年金100年安心プラン」なるものを示している。発言の主である麻生氏も、2008年に総理大臣として「平成十六年の年金改正により、おおむね百年程度を見通して長期的な給付と負担の均衡が維持される仕組みとしたところであります」と述べている(参議院会議録情報 第171回国会 本会議 第21号)。
6/6、安倍首相は吉本所属の西川 きよしさんや吉本新喜劇のメンバーと公邸で昼食を共にしたそうだ(共同通信「安倍首相、吉本芸人と昼食「同日選ある?」に笑顔」)。よしもとは詐欺グループとの関係性を理由にカラテカ入江さんを解雇したそうだが、よしもとは事務所として、国民の年金をぞんざいに扱う、いい加減なことを言って金を集めては溶かす、超巨大な詐欺集団のリーダー・安倍氏との会食に芸人を斡旋しているとも言えるのではないだろうか。これがよしもとの事務所としての斡旋で実現したものではなく、芸人の誰かの仲介によって実現したのだとしても、よしもとは、カラテカ入江さんと同様に中心となった芸人に対して何らかの処分を科し、 参加した芸人全てに厳重注意をしなくてはならないのではないか。