スキップしてメイン コンテンツに移動
 

表現の自由の意義を理解していない神奈川県知事


 神奈川県の黒岩知事は8/27の定例会見で、
  • 表現の自由は非常に大事だが、何でも許されるわけではない
  • (あいちトリエンナーレの企画展・表現の不自由展・その後 は展示内容が)表現の自由から逸脱している。もし同じことが神奈川県であったとしたら、私は開催を認めない
  • あれは表現の自由ではなく、極めて明確な政治的メッセージ。県の税金を使って後押しすることになり、県民の理解は得られない。絶対に(開催を)認めない
  • (元従軍慰安婦の女性を象徴した「平和の少女像」は)事実を歪曲したような政治的メッセージ
  • 慰安婦を強制連行したというのは韓国側の一方的な主張
と発言したそうだ(「表現の自由逸脱。開催認めない」愛知の芸術祭で黒岩知事 | 政治行政 | カナロコ by 神奈川新聞)。率直にいって神奈川県民、そして日本に住む者の1人として、到底認められない内容の発言ばかりで、恥ずかしさと怒りが同時にこみあげてくる。一言で言えば、県民の理解を得られないのは、あなた自身ではないのか。少なくとも自分は黒岩知事の発言を到底容認できない。


 表現の不自由展・その後については、名古屋市長や大阪市長、そして官房長官らも到底容認しがたい表現の自由の意義を解さない見解を示していた(8/4の投稿)。官房長官は兎に角、自分は名古屋市長や大阪市長のそんな主張を目の当たりにして、「名古屋市民・大阪市民は恥ずかしくないのか?」という思いがあったのだが、自分が住む地域の首長が同じ様なことを言いだしてしまい、当然自分はその発言を恥ずかしく思うし、自分は彼に票を投じてはいないものの、自分が住む地域ではそんな者を首長に選んでしまったことを恥ずかしく思う。更に、名古屋市民・大阪市民に対してどこか上から目線で「恥ずかしくないのか?」と思っていたことも恥ずかしい

 神奈川新聞の記事は会見の詳報ではなく、知事の発言の一部しか掲載されていない。記事のニュアンスが実状と大きく乖離していないのであれば、彼の発言は複数の点で不適切だ。
 まず、彼は表現の不自由展・その後 がなぜ表現の自由を逸脱しているのかを明確に説明出来ていない。彼は、「極めて明確な政治的メッセージ」であるから表現の自由を逸脱している、と言いたげだが、そもそも表現の自由は、主に市民による政治的主張が過剰に制限されない為に、言い換えれば、権力が自分達に都合の悪い声をかき消そうとすること、権力の暴走を抑制する為の概念である。つまり政治的メッセージこそ表現の自由によって守られるべきものだ。
 黒岩氏の言うように、極めて明確な政治的メッセージは表現の自由を逸脱する恐れがあり、県の税金を用いて後押しするべきものではない、が正しいと仮定する。彼は県知事であり、当然彼には県の税金から報酬が支払われている。そして彼は県知事なのでほぼ毎日極めて明確な政治的メッセージを発信している存在である。つまり彼の主張も表現の自由を逸脱する恐れがあることになり、彼自身も県の税金を用いて後押しすべき存在、県の税収から報酬を受け取るべきでない存在になる恐れがある。端的に言って、彼は自分の首を自分で絞めるような発言をしている。彼が「表現の不自由展・その後の展示内容や少女像は、極めて明確な政治的メッセージであり、県の税金を使って後押しすることは県民の理解は得られない。絶対に同様の企画展の開催は認めない」と言うのであれば、自分は神奈川県民の1人として、
 黒岩知事の発言は極めて明確な政治的メッセージであり、県の税収から彼の報酬を支払うことは、県民の1人として容認できない、黒岩氏を知事として絶対に認めない
と言わせて貰いたい。


 少女像は”事実を歪曲したような””政治的メッセージ”という話も、根拠が示されていない。少女像が製作された背景には確実に政治的なメッセージがある。そもそも政治的なメッセージというレッテル貼り自体が雑だ。どんな表現も、視点や状況によっては政治的なメッセージになり得る。例えば、一言「おなかが空いた」とだけ言ったとしても、その背景に「政府の杜撰な経済政策の所為で充分な収入が得られず、空腹を満たすことができない」のような事情があれば、その一言だけでも充分に政治的だ。政治とは市民の生活と密接な存在であり、寧ろ、政治的なメッセージと呼べない主張・表現は殆どない、と言ってもよい。発信者ではなく受け手の誰かが「政治的メッセージだ」と感じた瞬間に、どんな主張や表現だって政治的メッセージになり得る。
 また、少女像の一体何が事実を歪曲しているというのか。黒岩氏は、「慰安婦を強制連行したというのは韓国側の一方的な主張」であって、強制連行を強調する為に製作されたのが少女像だから、少女像は事実を歪曲している、という見解のようだが、少女像は単に慰安婦少女を模した像である。戦前の日本軍は慰安婦を強制連行していないという彼の認識も幼稚、というか歴史修正主義の典型で全く認められるはずもなく、名古屋市長や大阪市長以上に恥ずかしい発言を神奈川県知事がしているとしか言えない。
 

 表現の不自由展・その後 のサイトの、平和の少女像のページではこう説明されている。
 本作は「慰安婦」被害者の人権と名誉を回復するため在韓日本大使館前で20年続いてきた水曜デモ1000回を記念し、当事者の意志と女性の人権の闘いを称え継承する追悼碑として市民団体が構想し市民の募金で建てられた。
説明の他の部分も含めて、慰安婦の強制性を、日本政府や一部の日本国民が認めないので、それを認めさせる為に製作された、とは一切書かれていない。つまり、黒岩氏が勝手に持論を持ち出し、事実を歪曲していると言っているに過ぎない。言い換えれば、黒岩氏こそ、 慰安婦の強制性を、日本政府や一部の日本国民が認めないので、それを認めさせる為に製作されたということが事実か定かではないにもかかわらず、あたかもそれが事実かのように歪曲した主張を展開していると言えるのではないか


 神奈川新聞の記事では「私もメディア出身」という黒岩氏の発言も紹介されている。彼は2009年までのおよそ29年間、フジテレビで報道記者・ディレクター・キャスターなどを務めた実績がある。約30年物間報道に携わっていた者が、「極めて明確な政治的メッセージであり表現の自由を逸脱する」という見識を開陳しているのだ。昨日の投稿で書いた、弁護士資格を持つ柴山文科大臣の発言と同様に、実績や肩書等が如何に単なる箔付けに過ぎないかを思い知らされる。弁護士や報道関係者は、変に中立を装うのではなく、明確に彼らの主張の不備を指摘しておく必要があるのではないか。彼らの主張は、弁護士全体、報道関係者全体、そして政治家全体の印象を著しく悪化させる恐れのある内容だからだ。
 自分は神奈川県民として、全て神奈川県民は黒岩氏と同様の考えであると思われるのはまっぴらごめんなのでこの投稿を書いている。日本に住む者として、日本人は全て黒岩氏や柴山氏、そして官房長官や首相などと同じ考えであるとは思われたくないので毎日このブログに投稿を書いている


 トップ画像は、Lisy_によるPixabayからの画像 を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

読書と朗読を聞くことの違い

 「 本の内容を音声で聞かせてくれる「オーディオブック」は読書の代わりになり得るのか? 」という記事をGigazineが掲載した。Time(アメリカ版)の記事を翻訳・要約した記事で、ペンシルベニア・ブルームスバーグ大学のベス ロゴウスキさんの研究と、バージニア大学のダニエル ウィリンガムさんの研究に関する話である。記事の冒頭でも説明されているようにアメリカでは車移動が多く、運転中に本を読むことは出来ないので、書籍を朗読した音声・オーディオブックを利用する人が多くいる。これがこの話の前提になっているようだ。  記事ではそれらの研究を前提に、いくつかの側面からオーディオブックと読書の違いについて検証しているが、「 仕事や勉強のためではなく「単なる娯楽」としてオーディオブックを利用するのであれば、単に物語を楽しむだけであれば、 」という条件付きながら、「 オーディオブックと読書の間にはわずかな違いしかない 」としている。

あんたは市長になるよ

 うんざりすることがあまりにも多い時、面白い映画は気分転換のよいきっかけになる。先週はあまりにもがっかりさせられることばかりだったので、昨日は事前に食料を買い込んで家に籠って映画に浸ることにした。マンガを全巻一気読みするように バックトゥザフューチャー3作を続けて鑑賞 した。

敵より怖いバカな大将多くして船山を上る

 1912年に氷山に衝突して沈没したタイタニックはとても有名だ。これに因んだ映画だけでもかなり多くの本数が製作されている。ドキュメンタリー番組でもしばしば取り上げられる。中でも有名なのは、やはり1997年に公開された、ジェームズ キャメロン監督・レオナルド ディカプリオ主演の映画だろう。