この数日間で起きたいくつかのことに思いを巡らせていると、自分の属している日本の社会は、不合理な均質化が過剰に求められる社会であるように思えてならない。
特に大きかったのは、昨日の投稿「表現の不自由展・その後、権力者への揶揄・風刺はヘイトなのか」で書いた、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が、名古屋市長や官房長官からの圧力、合理性があるとは全く思えない抗議・脅迫によって中止に追い込まれた件だ。一応昨日の投稿の最後に、中止を報じた記事へのリンクを追記したが、昨日の投稿を書き終えた時点ではまだ中止という判断は下されていなかった。
同企画展が中止に追い込まれたのには、昨日の投稿で書いたように、名古屋市長の中止要請と官房長官が予算見直しを示唆するという圧力を加えたという背景が確実にある。それらの圧力だけが今回の中止という判断の理由とは言えないだろうが、気に入らない表現に権力が圧力をかければ、その活動を中止させられるという前歴となってしまったことはかなり残念だ。残念というか、民主主義国家としてかなり深刻な事態と書くべきだろう。
朝日新聞「少女像展示「中止を」 河村市長が知事に申し入れへ」にはこんな一節がある。
河村氏は大阪市の松井一郎市長から少女像の展示について「どうなっているんだ」と電話があったことを明かした。松井氏は報道陣の取材に「日本で公金を投入しながら、我々の先祖がけだもの的に取り扱われるような展示物を展示されるのは違うのではないか」と話した。大阪市長が名古屋市長に対して、まるで「企画展を中止させろ!」と命じているかのようである。これまでの河村氏の態度からして、松井氏に命じられたから中止を要請したと言っているのではなく、自分の中止要請の合理性をアピールする為に「大阪市長もこう言っている(だから自分の判断には合理性がある)」と言いたかったのだろう。
説明するまでもないが松井氏の話は酷い。彼は、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの。いかんと思う」という見解を示した河村氏と同様に(ハフポスト「「平和の少女像」展示中止を要請へ。あいちトリエンナーレを河村たかし・名古屋市長が視察」)、日本人・若しくは大阪市民の声を代弁しているつもりなのだろうが、個人的な都合によって市民の代表を演じたり、市長という権力者になったりしているようにしか見えない。昨日の投稿で指摘した話と同様に、結局松井氏も表現の自由という概念を正確に理解出来ていない人物の一人だろう。
「公金を投入しながら」云々という点についてだが、公金を投入したのだから権力に都合の良い企画展にしろ、と言っているのであれば、それは完全に権力による表現活動への不当な介入、場合によっては検閲に当たると判断されてもおかしくない。公金云々と言い出したら、その内補助金等をださなくても、「各種自治体のインフラを何かしら利用することになるから、うちの市ではそんな展示はさせない」などと言い出し始めるだろう。弾圧は大概そんなこじつけまみれのものだ。
また「我々の先祖がけだもの的に取り扱われるような展示物を展示されるのは違う」という話こそが認識違いである。我々の先祖が、戦前戦中に人権を無視して”けだもの”的に振舞ったのを認められないことこそが違う。しかも当該作品は慰安婦に関する像なのだから、作品が我々の先祖だけについて言及するのは当然のことだ。松井氏はこの隣にホロコーストで虐待されたユダヤ人の像があったら納得するのだろうか。恐らくそれでも彼は何かしらの理由で「不当だ」と言うだろう。もしユダヤ人像があれば納得するのだとしても、彼は企画展の趣旨が「これまで日本で発表の場を奪われてきた作品の展示」であることを、私は理解できない・若しくは都合が悪いので無視する、と自分で言っていることになる。
「国民の心を踏みにじるもの」という河村氏の話も相当深刻だ。「国民の」などと言ってはいるものの、彼が調査を行ったわけでも、何か調査結果を根拠に示したわけでもないから、ここでの「国民の」とは、厳密に言えば「日本国民である私の」、つまり河村氏の心が踏みにじられたと言っているに過ぎない。主語を過大に置き換えるのは妥当とは言えない。また「踏みにじる」も、言い換えれば「不快に思う」であり、つまり彼は「私が不快に思った」程度のことをかなり大袈裟に言っているだけである。誰かが不快であると言えば排除できる状況はかなり危険だ。例えば、あいちトリエンナーレには、カンパニー松尾さんも「A Day in the Aichi(仮)」という映像作品を出品している。彼は、アダルトビデオ・ハメ撮り作品を多く撮影してきた監督兼演者だ。その筋のカリスマとも言える人物だ。それを理由に彼や彼の作品を「不快だ」と感じる者もいるだろうが、不快だというだけで果たして彼や作品を排除することに妥当性はあるだろうか。
このように権力者が勝手に「日本人代表」を名乗り、勝手に代弁する形で圧力をかけるという行為は、権力が市民へ、権力が望むタイプの均質的な市民像を押し付けているとも言えそうだ。また別の視点から見れば、権力の意に介さない主張・表現をすれば弾圧されるぞ?だから分かってるよな?と、一部の市民を焚き付けている、つまり煽っているようにも見える。
どこの記者でもいいので、昨日の投稿でも紹介した、赤ちゃんトランプ風船の浮遊を許可したサディク カーン・ロンドン市長の、「平和的で安全であれば(許可する)私は検閲官にはなれない。センスの良し悪しを判断する立場にない」というコメントをどう思うのか、彼らに是非聞いてもらいたい。
但し、流石に日本の権力者が全てそんな人達とは言わない。例えば、同企画展の中止を発表する会見で愛知県の大村知事は、「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」とした脅迫FAXや、県職員個人への誹謗中傷が相次いでいることを挙げ、「こういう事象があったことを多くの方に知っていただくということではないかと思います」と話したそうだ。表現の不自由展については、「表現の自由をめぐるさまざまな議論の契機を作りたい」という目的で実施されたと前置きした上で、「趣旨や実行委員会の思いは多くの方に届いたんじゃないか」と評価したそう。また、会見の最後に
こういうことがあったと多くの国民の皆様に感じていただければいいんじゃないかと私は思っています。私が威勢のいいことをいうことよりもこういう事象があったということを多くの方に知っていただくということではないかと思いますとも述べたそうだ。歯切れは決して良くないが、圧力をかけて中止に追い込んだ名古屋市長や大阪市長、官房長官とは比べものにならない冷静さだ。前述のロンドン市長の表明とも通ずる部分が多い。
大村知事が明かしたように「会場でガソリンを撒いて火をつける」ことを示唆する脅迫や、それ以外にも県職員が滅入ってしまうような電話も多数あったようだし、SNSに投稿されていた情報なので実状は定かでないが、街宣車で会場に乗り付けて、あることないことまくしたてた人達もいたようだ。抗議電話も場合によっては嫌がらせ・業務妨害になり得るだろうが、それでも全てに法律違反の懸念があるとは言えない。街宣車で乗り付けて言いたい事を言う行為も、内容によりけりではあるが、同様である。しかし、ガソリンを巻いて火をつける行為を示唆するのは明白な脅迫行為だろう。気に入らないことを脅迫という暴力行為でコントロールしようとする行為も、自分と異なる主張を不当に抑えつけようとする行為だから、不健全に均質化を求めるのが目的の行為と言えるのではないか。
表現の不自由展・その後 が槍玉に上がっている主な理由は慰安婦像にあり、それは確実に政治的な事案と言えるだろう。政治的な思いを背景にガソリンを巻いて火をつければ、それは所謂テロ活動だ。ということは、「ガソリンを巻いて火をつける」と示唆すれば、実際に行為に及ばなくともテロ未遂と言えるのではないか。日本の現職総理大臣は、例えば「安倍首相「テロに屈しない」、イスラム国人質事件で関係閣僚会議」(ロイター)のように、これまでに何度も「テロに負けない・許さない」的な発言をしてきたが、何故彼は今回の件に即座に反応しないのだろうか。
彼は、誰もが「ガソリン携行缶を持ってお邪魔する」という脅迫から連想する京都アニメーション放火事件に対して哀悼の意を表するツイートをしている。ならば、その種の脅迫を許さないと表明することは、少なくとも嫌悪感を即座に表明するのは当然ではないのか。警察に対応の強化を支持するのは当然のことではないのか。しかし、そのような脅迫によって同企画展は中止に追い込まれたわけだ。つまりこれは「脅迫というテロ行為に屈した」ということでもあるし、愛知県知事がか、同企画展の主催者がかは定かでないが、警察がテロ行為を充分に防いでくれるとは期待できないと判断したという側面もあるかもしれない。
自分には、
警察は首相や政府を批判する市民の排除は出来るのに、テロ行為を示唆する脅迫をする者を排除することは出来ない組織であるように見える。これでは、オリンピックも放火脅迫で中止させられそうだし、国会の予算委員会を開くのが都合が悪ければ、誰かに1本電話させるだけで中止させられそうだ。今の政権と与党は声高に緊急事態条項を盛り込む憲法改定を主張しているが、もし実現したら「国会に放火する」という電話1本かけさせるだけで緊急事態を宣言しそうだ。そんなことになれば、今よりも政府と与党のやりたい放題な状況が実現する。しかもその状況は今の政府と与党が別の政権と交代しても続く。もし今後今の政府と与党よりも更に酷い政権が成立したら一体どうなるだろうか。悪用することが可能な仕組みは絶対につくってはならない。7Payの事案を見ればそれは誰の目にも明白だ。
少しタイトルの「不健全な均質化、危険な平等感」から話がズレてしまったようにも思うが、そうでもないとも思っている。数日前に書いた投稿のタイトルは「投票率の低さの原因は「出る杭は打たれる」「理不尽は耐え忍ぶもの」という認識」だった。この投稿に登場する大阪市長や名古屋市長、そして日本の総理大臣は、確実に民主的な方法で有権者によって選ばれた存在である。つまり、おかしなことを言う権力者を選んでいるのは間違いなく有権者・日本国民だ。
以前から日本人・日本の社会には、生活保護費が最低賃金収入を上回るのはおかしいから保護費を減額しろ、のような「自分達も我慢してきたのだからお前らも我慢しろ」的な、はき違えた平等感が蔓延っているが、その傾向は近年更に悪化の一途をたどっているように思う。前述の投稿でも書いたことだが、日本では10代の頃から異常なまでに均質化を求められ、ブラック校則や不当な指導によって、ルールや目上の者の言う事には理不尽だろうが従うものという意識が植え付けられる。その傾向は戦前から連綿と受け継がれており、一応敗戦による断絶はあったものの、敗戦後も同じ様な意識は受け継がれ、しかも断絶してから数世代に渡ってその傾向が培養されれば、状況が悪化するのは必然かもしれない。
昨今のそのような日本の風潮に違和感を唱える人達もそれなりには増えているが、この投稿に出てきた市長や総理大臣がいるということは、結局旧態依然の思考がまだまだ支配的というのが現状なのだろう。このままでは「不健全な均質化、危険な平等感」によって、日本は後進国、というか衰退国になってしまうのではないか。
トップ画像は「均質化」のイメージとして、Andrew MartinによるPixabayからの画像を使用した。