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投票率の低さの原因は「出る杭は打たれる」「理不尽は耐え忍ぶもの」という認識

955169によるPixabayからの画像

 「出る杭は打たれる」。複数の意味合いのある表現だが、ここで注目するのは、
さし出たことをする者は、人から非難され、制裁を受ける。コトバンク/デジタル大辞泉
として用いる場合だ。7/21の第25回参議院選挙に関連して選挙期間中にも複数回、そして終わった後の一昨日の投稿昨日の投稿でも投票率について書いた。今日の投稿もまた投票率に関する話だが、今日注目するのは若年層・10-30代の投票率はなぜ低いのか?についてだ。若年層投票率の低さは、日本社会の「出る杭は打たれる」傾向の強さがその主な理由なのではないか?というのがこの投稿の趣旨である。


 まず投票率についておさらいしておく。昨日・一昨日の投稿でも触れたように、参院選の投票率は48.8%と、1995参院選以来24年ぶりに50%を割ったが、それでも直近の各種選挙の投票率と大差はない。国政選挙としては戦後2番目に低い投票率だが、地方選などでは更に低い場合も決して珍しくなく、大変残念だが驚きはそれ程ない。
 年齢に比例して投票率が下がるのもこれまでの傾向と変わらなそうだ。現時点ではまだ、今参院選の年代別投票率に関する報道や発表は見当たらないが、東京新聞「参院選、10代 投票率31% 全世代より17ポイント低く」によると、10代投票率は31.3%だったそうだ。この数字は、前回・2016参院選の20代投票率35.6%を下回る。因みに前回・2016参院選は初めて18-19歳にも投票権が与えられた選挙で、10代の投票率は46.8%だった。また直前の国政選挙・2017衆院選では40.5%と顕著な下落傾向にある。18歳以上に投票権が与えられた直後は話題性や物珍しさもあって20代よりも投票率は上だったが、結局その後は啓蒙等が息切れしてしまっているのが実情だろう。
 投票権が18歳に引き下げられた時は、投票権を与えることは政治/選挙への興味を持つきっかけになるようにも思えたが、実際は投票権が与えられるのが20歳からでも状況に大差はない。つまり投票権を与えるだけではその効果は薄く、やはり啓蒙等他の要因がなければ投票率は上がらないということが、今回の参院選で明確化したと言えそうだ。

 この選挙戦中、それ以前も「何故投票する必要があるのか、政治に参加しなくてはならないのか」という啓蒙が各所でされていた。しかし果たしてその啓蒙方法は現時点で政治に興味のない層に届くのか?ということ、それよりももっと身近な話に落とし込んで、理不尽なことは選挙/政治によって変えることが出来る、と理解して貰うことが大事なのではないか?ということを、7/6の投稿「よく分からずに投票して、後で「投票先を間違った」と思っても全然大丈夫」で書いた。
 昨日「こんなことがはてなブログに書かれている」というツイートがタイムラインに流れてきた。そのはてなブログの投稿「19歳の私が、選挙で自民党に投票した理由」にはこんなことが書かれている。
1.増税にあんまり抵抗がない
子どもの頃から消費税が上がり続けているので、もう「消費税=年々上がるもの」だと思ってる。

2.年金はどうでもいい
年金は払ったことないけど住民税とか給与から引かれる系の税と同じで、払ったから貰えるものじゃないと思ってる
だからどこの党の年金対策も信用できない。

3.まとめブログの影響
中高生の時にハマったまとめブログとかNAVERまとめの影響で、近隣国の反日とか領土問題を目にしてきたから
国防や安全をちゃんとしないとヤバいと思ってしまう。
あと尖閣諸島の時の怖さがあるから、米軍基地がなくなったり自民以外になると反撃できなくなりそうで怖い。
投稿のタイトルは「自民党に投票した理由」だが、投票すらしなかった人も、3は別としても、1.2については恐らく似たような意識なのではないだろうか。場合によっては3も似たような認識かもしれない。
 消費税と年金に関しては「理不尽だ」という認識も少なからずありそうだが、「そういうルールだから仕方がない」という認識の方が勝っているように見える。つまり、理不尽なことであっても黙って受け入れるしかないという感覚が強そうだ。


 昨日の投稿でも触れた、よしもと・岡本社長が7/22に行った記者会見に対して多くの所属芸人らが不快感/違和感を表明している。中には明確に批判している者もいる。
Togetterの投稿は80件以上のツイートがまとめられているが、ツイッター以外で意思表示している者もいるし、これらの記事等でも拾いきれていない声もまだまだ他にもありそうだ。
 このような、主に若手芸人らの主張に対して、中には、9:1(1が芸人)とも言われているよしもとのギャラ配分に関して、岡本氏が「5:5か6:4が実態」という見解を示したことについて、海外ロケ約1週間の仕事で1万円しか貰えなかったことを主張した者もいたことを知ってか知らでかは定かでないが、よしもと所属のベテラン芸人・太平 サブローさんはラジオ番組の中で、
時代ってすごいよな。若い人、こいつらふぜいで、これを言うか!って
気にいらんかったら辞めろ
この状況になって出すなよ。この状況じゃない時に社長や大崎さんに言いに言っとけ。弱ったん見て、急に言い出すやろ
などと述べたそうだ(ハフポスト「吉本ベテラン芸人の大平サブローさん、 若手芸人に憤慨「気に入らんかったら辞めろ」「こいつらふぜいが」」)。
 太平さんは「俺らが若い頃から若手のそんな扱いは当然だった。俺たちもそれを乗り越えてきた。今の若いもんは我慢が足らない。俺らも我慢して乗り越えた。だから成功した。お前らも我慢しろ。嫌なら辞めろ」と言っているようにしか見えない。本人にそう問いただしても、それを認めるかどうかは分からないが、決して少なくない人がそう感じるのではないだろうか。
 「嫌なら辞めろ/出ていけ」の不適切さについては7/19の投稿「大統領の差別的ツイートを運営は「問題なし」としたが…」でも書いた。よしもとが個人事務所のようなサイズ感なら「方針が気に入らないなら辞めて」でもいいかもしれないが、それでも労働法の規定にそぐわないような条件での雇用/契約は認められるものではなく、不当な扱いに関しては相応の責任をとる必要がある。つまり場合によってはハラスメントになりかねない発言だ。


 他国と比べてどうこうという話ではないが、日本の社会には未だにこの「理不尽だろうがルールはルール。俺たちも我慢したのに他の者が同じように理不尽を我慢をしないのは不公平」と考える者が決して少なくない。果たしてそんなことを続けていて社会がよくなるだろうか。それでは良くもならないし進歩もないだろう。
 今回の参院選ではれいわ新選組から舩後 靖彦さんと木村 英子さんの、車椅子と介護者が欠かせない2人が当選した(ハフポスト「れいわ新選組の木村英子さんが当選確実。脳性まひで障害、比例代表「特定枠」で 2人目」)。これを受けて国会のバリアフリー化を早急に進めなければならない状況なのだが、一部に「税金の無駄遣い、自費で負担しろ」のようなことを恥ずかしげもなく言っている人もいる。恐らく「口もきけないような、1人では何も出来ない障害者に議員が充分に務まる筈もないのに、余計な金を使うな」のような意図なのだろう。彼らは、舩後さん同様にALSを患っていたホーキング博士がどんな状況でどんなことをした人かを知らないのだろうか。ホーキング博士の例を出すまでもなく差別と偏見に満ちている。
 このようなことこそまさに

出る杭は打たれる

ではないだろうか。若しくは、ザ・ブルーハーツの曲・トレイントレインの歌詞「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」の典型的な例だろう。
 数年前からブラック校則が話題になっている。話題になったことでその手の校則を見直す風潮にはあるが、今でもまだまだその種の校則の存在や、生理中の女性徒に無理やり水泳させる等、似たような認識に基づく教員の理不尽な指導などがしばしば明るみになる。そのようなことは、日本の学校の中では教員から生徒だけでなく、先輩から後輩にも行われる。 例えば防衛大学校での下級生いびりなどがその最たる例だ(東京新聞「防衛大、下級生いじめがまん延 宿舎生活、地裁が認定」)。そこまで酷くなくとも、先輩から後輩への理不尽な扱いは、昭和の頃に比べたら少なくはなっているだろうが、主に部活動等で未だに残っている。
 10代の頃からそのような「理不尽は耐え忍ぶもの」という環境に置かれたら、日本の投票率が下がるのも当然だろう。それが前述したはてなブログの投稿に如実に反映されいる。「消費税はどうやっても上がるもの」「年金は払ったからって貰えるものじゃない」というある種の諦めを背景に、それはどうにもならないから現在多数派の自民党に投票する、若しくは投票しても変わらないからしない、という行動になっているのではないか。


 勿論、そうやって諦めていると最終的にどうなるかを説くことや、消費税や年金問題は、有権者が意思表示をすれば方向転換させられることを説くことも大事だろうが、個人的には、まず最初に必要なのは、学校の校則や行事の是非を生徒に考えさせ、生徒主体の投票で方針を決めさせるようにしたり、また学区制を止めて、学校自体を生徒自身がもっと柔軟に選べるようにすることなどによって、「理不尽は耐え忍ぶもの」という認識を10代の頃から植え付ける状況を大きく転換させるべきだと思う。「理不尽は自らの行動と主張で変えるもの」と認識させること、それこそが民主主義の存続/維持に必要な主権者教育の第1歩ではないだろうか。
 また、自分が強いられてきた理不尽を、伝統とかルールだからとか、法律でそう決まっているから等の理由で後に続く者に強制するのはおかしい、建設的ではないという認識を、まず親や教員、つまり大人に徹底することが大事なのだろうが、伝統的○○が大好きな人達が権力を持っていると、それを実現することすら難しいということを、消費税/年金云々以前に10代へ啓蒙するべきだ。そちらの方が確実に10代にも実感のあることだろうし、それこそが日本の投票率を上げる近道だろう。
 選挙期間やその直前だけその時世の政治問題を論じても、若者の政治的な意識が高まるとは思えないし、投票しようという意欲が湧くとも思えない。自分のことを自分達のこととして認識し周囲の人達と話せる環境と、そのコミュニケーションの延長線上に状況を変化させられる仕組みを用意しておくことこそが重要だ。勿論学校だけでなく家庭内でも同じであって、親が子のことを何から何まで決めて従わせるような関係性は絶対的に好ましくない。


 7/21の投稿に、宮迫さんと田村さんはどうして選挙戦最終日というタイミングで会見なんかするの?」という思いもあったが、会見を行ったことによって、

 日本には権力が個人を抑圧する空気が蔓延している

ことが、直接的ではなくとも、多くの人の目に晒されたようにも思え、彼らがそのタイミングで会見を行ったことには相応の意義があったとも言えるかもしれない、と書いた。
 前述したように、月曜のよしもと・岡本社長の会見を受けて、2人以外にも更に多くの同事務所所属芸人が理不尽な扱いを訴え始めている。芸人たちは職業柄概ね皮肉を言うのに長けており、彼らは自分達への理不尽な扱いを訴えるのが上手い。もしこの件で、置かれた状況が日本の若者らと似ている若手芸人らが、自分達が主張することで理不尽な扱いを変えられることを世間一般に示せたら、世間一般の人達、特に若い人達が「理不尽は耐え忍ぶものではなく、自分達で改善するもの」と認識し始めたら、それは日本の投票率が上がるきっかけになるかもしれない。
 そんな意味でも、不当な扱いを受けてきたよしもと所属の若手芸人には、是非巨大事務所やベテラン芸人などの権力に屈することなく訴えを続けてもらいたい。

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