スキップしてメイン コンテンツに移動
 

子宮頸がんワクチン問題からも感じる、大手メディア・特にテレビの不甲斐なさ



 子宮頸がんを予防するためのHPVワクチン。日本でも2010年より中学1年生から高校3年生相当の女子が無料(もしくは低額)で接種を受けられる制度が始まったが、2013年4月に、異常行動などの副反応の懸念を理由に、国は積極的勧奨を中止して現在に至っている。国は積極的勧奨はしないという姿勢であるものの、制度自体を廃したわけではなく、制度自体は続けられている。但し、2019年9月の時点では、無料で接種が受けられる対象者は高校1年生までの女性となっており、対象を外れると費用は自己負担となる(3回の接種が必要で、合計で4-5万円程度)。
 国が積極的勧奨を中止した大きな理由の1つである副反応への懸念については、2013年初頭にメディアでも大きく取り上げられていた。しかし、WHO:世界保健機関は同年7月に、「日本が報告する慢性疼痛の症例は、同様の徴候が他国で認められないことにより、2013年時点ではHPVワクチンを原因として疑う根拠に乏しい」という見解を示し(HPVワクチンの安全性に関するWHOの公式声明 | 子宮頸がん征圧をめざす専門家会議のプレスリリース | 共同通信PRワイヤー)、日本政府の方針を疑問視している。


 日本国内でも2015年に、HPVワクチン接種と懸念される副反応に因果関係があるのかに関するアンケート調査が行われている。調査は名古屋市の小6-高3の女子7万人を対象に行われ、約3万人分のデータを調べた結果、懸念された副反応とされる症状はワクチン接種の有無にかかわらず生じていたと結論付けられている(子宮頸がんと副反応、埋もれた調査「名古屋スタディ」監修教授に聞く|医療ニュース トピックス|時事メディカル)。
 しかし、副反応への懸念が大きく報じられたのに対して、それがあくまでも懸念でしかなく因果関係が確認できなかったことについては、勿論全く報じられなかったわけではないが、個人の感覚で言えば、懸念の時程大きくメディアで取り扱われなかったように思う。つまり、メディアは不安を煽るだけ煽り、いざその不安が取り越し苦労だと分かっても、それを反省するような報道はしなかったように思う。その所為で、今もまだHPVワクチンに対する懸念を感じている国のワクチン接種対象世代、その親世代は決して少なくなさそうだ。

 BuzzFeed Japanは9/17に「HPVワクチン、7割が「何のために打つのかわからない」 意識調査でわかったこと」という記事を掲載した。


 「日本医療政策機構」が行った、20歳以上・およそ2400人を対象にしたインターネット調査の結果に基づく記事で、見出しにもあるHPVワクチンの役割に関する設問はその中の1つだ。
 「HPVワクチンを何の為に打つのか分からない」という人が約7割に達するということは、やはりメディアの報道が不安を煽る傾向に偏っていたと言わざるを得ない。国が積極勧奨を中止した理由の一つには、確実に2013年初頭の報道等によって、HPVワクチンの副反応への懸念を、多くの視聴者・国民がメディア・特にテレビ報道/ワイドショーによって煽られたからということがある。しかし、HPVワクチンが何の為のワクチンかすら理解していない人が7割もいるということは、勿論視聴者や国民が熱しやすく、且つ冷めやすく、当時は認知していたが既に忘れたとも予測はできるが、当時のメディア・特にテレビは不安だけを殊更強調し、どんなワクチンなのかは伝えきれていなかった、そしてその後副反応への懸念は科学的根拠が乏しいという調査がなされても、それも伝えきれていない、という恐れの方が強いように思う。

 勿論、メディアやテレビの所為にするだけではいけない。例えば、BuzzFeed Japanは、定期的に子宮頸がん/HPVワクチンに関連する記事を掲載している。
BuzzFeed Japanだけでも、2019年だけでこれだけの記事を掲載しているし、例えば「子宮頸がんワクチン知って 勧奨中止6年、自治体危機感 - 産経ニュース」「子宮頸がんワクチン接種「決めかねる」4割 厚労省調査:朝日新聞デジタル」など、既存メディア・新聞などもしばしば関連記事は掲載しているので、市民側の認識の刷新をする努力も決して充分とは言えないだろう。
 但しそれでも、40代以上を中心に、未だに大きな影響力を持つメディアであるテレビでは、子宮頸がん/HPVワクチンの問題は殆ど触れられていないと言っても過言ではない。いまもまだ流行中ではあるが、少し前に風疹ワクチン接種について、定期接種が1回に限定されていた1977-90年生まれが谷間の世代であり、その層が流行の原因の一つになっていることが話題となり、ワクチン接種による集団免疫の重要性なども報道された。しかしHPVワクチンに関しても同様であるにもかかわらず、そちらは殆どクローズアップされていない。

 昨日の投稿の中で、現在の政府内では、財務省で公文書の改竄が行われたり、防衛省で自衛隊日報の隠蔽が行われたり、厚労省で労働に関する統計データが捏造されたり、法務省が外国人労働者に関するデータの恣意的解釈を行ったりするなど、公文書や政策立案/議論に用いるデータの改竄・隠蔽・捏造が横行しており、一度嘘つきのイメージが付いてしまうと、本当の事を言っても信用して貰えない、ということを書いた。
 しかも、HPVワクチン等を所管する厚労省では、年金にまつわる度重なる様々な不手際・不適切な対応、昨年初頭に発覚した裁量労働制に関するいい加減な資料の作成(捏造)、それを指摘された際に、実際には保管してあったデータを破棄したと説明した隠蔽工作、監督官庁であるにもかかわらず連綿と行われていた障害者雇用についての誤魔化し、そして極めつきは毎月勤労統計での実質賃金に関する不正、と修正した統計を頑なに公表しない姿勢等、自らの信頼性を削ぐようなことが多発しており、原発の汚染水や汚染土の安全性に関する話と同様に、今の政府や厚労省がいくらHPVワクチンの安全性を論じても、そもそも「果たして信頼できる話なのか?」という疑問が生じてしまうのも無理もない。
 加えて、大手メディア・特にテレビがそれに関する報道に消極的ならば、市民の認識が刷新されないのもある意味当然だろう。


 結局のところ、この子宮頸がん/HPVワクチンに関しても、正しい認知が広がらないのは、政府とメディアの責任によるところが非常に大きいと言えるのではないだろうか。
 こうやって政府とメディアの責任を指摘すると、「なんでもかんでも政府やメディアの所為にするな」という人が現れる。次のツイートは、自分の主張に対して直接示されたものではないが、


というツイートが昨日目に付いた。安部 敏樹さんはテレビ番組のコメンテーターも務めるような人物である。そんな人が、政府が嘘をつく体質を作ったのはメディアや国民や野党にもあると、無理筋な責任転嫁のようなことを言っている。彼の主張は、タイミングさえ合っていれば決して筋違いではないかもしれない。しかし、公文書の改竄や度重なる日報等の隠蔽、データの捏造が発覚しても尚「良い意思決定は褒めるべき」と思えるとは、かなりのお人好し(皮肉)と言うより他ない。もう既にそんな喧嘩両成敗的なレベルは遥か昔に過ぎ去っている。
 自分には、このタイミングでこのような主張をする安部さんのこのツイートは、
「いじめられる側にも問題がある」「痴漢される側にも落ち度があった」みたいな話だとしか思えない。


 トップ画像は、Arek SochaによるPixabayからの画像 を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。