スキップしてメイン コンテンツに移動
 

平時に見え難いことでも、有事には表面化しやすくなる


 有事は平時に比べて様々なことが表面化しやすい。平時でも思いがけないことが表面化することはあるが、有事には多くの人に余裕がなくなる為、又は臨機応変な対応が求められる為、平時では分かり難いことが表面化したり、不安視されていたことが実際にそうだったことが証明されたりもする。但し逆に不安が取り越し苦労だったことが証明される場合もあったりする。
 何にせよ普段身を潜めていて見え難いものが、有事の際には水面上に姿を現すことがよくある。


 10/12、日本の観測史上でも10本の指に入るであろう強力で大きな台風・19号が伊豆半島に上陸し、中部から東北の広い範囲に大きな被害をもたらした。この投稿を書いている時点で、「台風19号 39人死亡 16人行方不明 189人けが」とNHKは伝えている。


 再確認するが、39人もの人が命を落とし、16人の行方が未だ分からず、189人もの人が怪我を追っている。これを「大きな被害が出た」と表現するとして、一体どれ程の人が「その認識は大袈裟だ、事実に即した表現とは言えない」と言うだろうか。恐らくそう感じる人は全体の1割にも満たないだろう。
 自民党の二階幹事長は、台風被害を受けて10/13に行われた党の緊急役員会で、
 予測されて色々言われていたことから比べると、まずまずで収まったという感じだ
と述べたそうだ。「二階氏 台風被害「まずまずで収まった」緊急役員会で [台風19号]:朝日新聞デジタル」によると、この時点で既に20人以上の死者が出たことが分かっており、行方不明者の捜索も複数行われていたそうだ。二階氏は役員会後、記者らに対して、
 日本がひっくり返されるような災害、そういうことに比べれば、という意味だ。1人亡くなったって大変なことだ
と前述の「(台風の被害は)まずまずで収まった」という表現を用いた意図を説明したらしい。
 確かに、2000年代最悪の被害を出した東日本大震災に比べれば、今回の台風による被害は明らかに小さい。二階氏はそのようなニュアンスで当該発言をしたのかもしれない。しかしそれでも、既に20人以上の死者が出ており、河川が複数個所で溢れたり多数の家屋が浸水する規模の大きな被害が出ていたのは明らかなのに、被害は「まずまずで収まった」などと述べれば、強い反感を買うのは当然だ。配慮に欠けていると言われても仕方がないし、二階氏や、二階氏が自民党幹事長であることから、自民党の「本音が垣間見えた」と思われても仕方がない。
 このような政治家の発言への批判について、「揚げ足取りだ」という擁護を相変わらず見かけるが、政治家とは議論を主な役割とする職業である。適切な表現が出来ない者に適切な議論は難しく、政治家としての資質に欠けると言わざるを得ないし、被災者や死亡者遺族の心情を察することが出来るなら、そんな無思慮な表現にはならないだろう。二階氏が政治家でなければ「批判は揚げ足取りだ」と言える余地もあるかもしれない。しかし彼はブラックジョークで世間に問題を提起するようなコメディアンではなく、あくまでも政治家である。政治家には政治家の役割と責任がある。


 10/12の夜、まだ雨が降り止まない頃にツイッターを眺めていると、「台東区でホームレスが避難所の利用を断られた」という話があった。その時はまだ未確認情報といった雰囲気で、一部のジャーナリストらが各所に確認を取っているような感じだった。自分の住む国で起きていることとはにわかに信じられなかったし、ツイッターのタイムラインを見ながら「デマ」「勘違い・言葉の行き違い」であって欲しいと思っていた。
 しかし翌日13日、 複数のメディアがこれを事実として報じ始めた。台東区が路上生活者の避難所利用を拒否。「来るという観点なく援助の対象から漏れた」と担当者 BuzzFeed Japanによると、
「区内に住所がない」などを理由に、路上生活者の自主避難所利用を断っていた
そうだ。SNS投稿を見た人々が、台東区役所の災害対策本部に抗議の電話などをしたが、「住所がないと利用できない」「区民が優先」の一点張りだったそうで、BuzzFeed Japanが台東区災害対策本部に確認したところ、
 自主避難所では入り口で避難所カードに名前や住所をご記入いただいています。そこでいらっしゃった住所不定者の方が『住所がないんです』とおっしゃり、避難所は区民の方への施設ということで、お断りをさせて頂きました
と、事実として認めたそうだ。しかし、同区には外国人を含む観光客が多く訪れる上野や浅草があり、外国人観光客や帰宅困難者向けの避難場所を設けられていたらしい。どう考えても住所の有無云々は詭弁としか言いようがない。明らかな差別だ。しかも役所・役人による差別である。「残念だ」なんて言葉だけでは到底言い表せない絶望感に襲われる。

 一方で、岩手県釜石市で10/13に開催が予定されていた、ラグビーワールドカップの試合は、交通機関の乱れや周辺地域に土砂災害の恐れがあることなどから中止になってしまったが、その試合でナミビアと対戦する予定だったラグビーのカナダ代表チームは、試合の中止決定後も釜石市にとどまり、台風で流出した泥のかき出し作業を手伝ったそうだ(試合は中止、でも… カナダ代表が台風で被災した釜石で大活躍 BuzzFeed Japan)。
 台東区がホームレスの避難所利用を拒否した件について、「税金を払っていないのだから当然」のようなことを言っている者が一部にいる。もしカナダ代表チームの試合が台東区で行われる予定で、その試合が中止になっていたら、カナダ代表チームはホームレスだからとか税金を払ってないから等で援助する人を選別しただろうか。万が一そんなことを彼らがしたとして、それで彼らの行為は称賛されただろうか。逆に非難の対象になっていたのではないだろうか。
 台東区の判断や「税金を払ってない者は避難所利用を断られて当然」という見解が如何に愚かなのかは、分別のある大人であれば簡単に想像が出来るはずだ。


 台風の影響で、原発事故の除染作業に伴い生じた廃棄物を入れた袋・フレコンバックが仮置き場から川に流出した


原発事故の除染ゴミが川に流出、保管場浸水 福島・田村 [台風19号]:朝日新聞デジタル」によると、
 シートで覆うなどの台風の雨や風への対策はしていなかった
そうだ。川に流されてしまったフレコンバックは、同場所に保管されている2667個の内の極少数のようだが、流されたフレコンバックを全て回収したという記述ない。更に「仮置き場が台風19号による大雨で浸水」という表現があり、除染廃棄物という少なからず放射能汚染の懸念がある物質が水に浸され、その水が周辺に流出したと考えるべきだろう。
 この件について、小説家の津原 泰水さんは


とツイートしている。最早説明の必要もないだろうが、アンダーコントロールとは安倍首相が東京オリンピック招致演説の中で使った表現で、厳密には
Situation is Under Control(福島の原発事故はコントロール下にある)
だ(8/21の投稿)。安倍氏の当該発言が欺瞞に満ちていること、嘘であることは、多くの人がもう既にそう認識していることだが、この台風による大きな被害という事態によって、それが嘘だったことが更に再確認されることとなった。
 
 このように有事には、平時に見え難いことが表面化する。そんなことがよくある。


 トップ画像は、skeezeによるPixabayからの画像 を加工して使用した。

このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。