自分の属性と自分とは異なる属性を意識し始めたのはいつからか。記憶を辿ってみると、それは多分小学1年生だ。あくまで自分とその周辺のケースの話だが、小学生になると男の子は男の子同士、女の子は女の子同士で遊ぶようになった。小学校以前も同性だけで遊ぶことはあったが、それはたまたま同性しかいなかっただけで、意識して同性だけで集まったり、異性を排除した記憶も、排除された記憶もない。実際にはそんなことがあったが記憶に残っていないだけかもしれない。但し、性別という属性を強く意識したのは小学生になってから、という記憶に大きな間違いはないだろう。
小学生になって意識した自分とそれ以外の属性は性別だけではない。
自分が住む街には幼稚園と保育園があったが、小学生になる前は幼稚園に通う子、保育園に通う子、どちらにも通っていない子のような属性の差を強く意識した記憶がない。もしかすると近所の子とそうでない子のような属性の差は意識していたかもしれないが、当時は生活・行動範囲が狭くて多分そんな認識も殆どなかったように思う。
自分の住む町は団地が大半を占め、ポスト団塊ジュニア終盤世代だったのでまだまだ子供の人数も多く、町の中に3つも小学校があった。小学生以前は幼稚園か保育園かという属性意識は殆どなかったのに、小学生になると「自分は○○小の生徒であいつは○○小」のような意識が急に芽生え始めた。更に、同じ小学校の中でも「俺は〇組、あいつらは〇組」のようにクラス単位での属性も意識するようになった気がする。
誰もが、ということではないが、 ちょうどその頃が自分の属性と自分とは異なる属性を意識し始める年頃なのかもしれない。
属性を意識することで、同じ属性を持つ者同士の連帯感は強まったように思う。しかし逆に異なる属性の者を排除しようとする傾向も出てきたように思う。例えば、公園で遊んでいても「男/女だから仲間入れてやらない」「〇組だから入れてやらない」「〇小だからお前は来るな」なんて言われたことも、言ったこともあるような気がする。そういう連帯感や区別する意識には、ポジティブな面もあればネガティブな面もあったかもしれないが、どちらかと言えばネガティブな面の方が強かったかもしれない。
10/14の投稿で書いた、「台東区でホームレスが避難所の利用を断られた」件について、台東区長が
避難所での路上生活者の方に対する対応が不十分であり、避難できなかった方がおられた事につきましては、大変申し訳ありませんでしたと謝罪したそうだ(路上生活者の避難所利用拒否で台東区長が謝罪「対応が不十分だった」BuzzFeed Japan)。避難所へやってきた路上生活者が、「区内に住所がない者は避難所を利用できない」という理由で避難所の利用を断られ、避難所の軒先で風雨をしのいでいると、追い討ちかけるように「ここは避難場所の入り口なので移動して」と移動までさせられた、ということが、52の河川で堤防73カ所が決壊し、70人以上の死者を出した台風が東京を直撃した際に起きた(不明14人の捜索急ぐ=死者74人、被害全容見えず-浸水徐々に解消・台風19号:時事ドットコム)。
住所のあるなし・区民か否かという属性によって、助けを求めてきた人を選別するという判断にはポジティブな側面など微塵もない。この件について「ホームレスは税金を払ってないんだから…」と、納税額という属性での選別によって正当化しようとする人もいるが、生活保護を受ける母と子は、年金生活者の老人は避難所の利用を断られても仕方がないのだろうか。そんな人達を暴風雨の中へ放り出せるのだろうか。
そもそも消費税のある現在の日本で、これまで1円も納税したことがない人なんているわけがない。つまり、納税云々と言い出すということは、一定額以上の納税がなければ避難所は利用できなくて当然、避難所に限らず公共施設利用は認められなくて当然、ということにもなりかねない。つまり、その主張によって将来的には自分も排除対象にされる恐れが生じる。納税額による選別とはそういうことだ。「公共」という概念が崩壊しているとしか言いようがない。
これはとても象徴的な話で、生活保護を受ける者や障害者、女性や性的少数者等に対して、その属性だけで排除しようとする者が、少なからず日本の社会には存在している。例えば、ベルギーやフランスでテロが発生しISが犯行声明を出した影響で、イスラム教徒というだけで排除しようとするような人が可視化された件などからも分かるように、そのような人達は日本以外の社会にも存在しているが、他地域にもいるから日本の社会での存在も否定できない、否定されないなんてことは断じてない。他地域でもそのような認識を持つ者は批判の的である。
今回の件も、BBCが「Typhoon Hagibis: Homeless men denied shelter in middle of typhoon」という記事で批判的に伝えている。この件は公的機関による事案だったので、日本の人権意識の低さが露呈したことに他ならず、少なからず日本全体の印象を悪化させている。
ハフポストは、10/15に「「なぜ、弱者を叩く社会になったのか?」相模原事件から考えた、不寛容な時代」という記事を掲載した。作家の雨宮 処凛が、見出しの通り、弱者排除・不寛容などについて語っているインタビュー形式の記事だ。記事に何一つ新しいところはない。これまでに自分がこのブログで書いてきたことと似たようなことが散りばめられている。
自分はこの記事を読んで、再び見出しの「なぜ、弱者を叩く社会になったのか?」について考えた。人間は誰しも自分の属性と自分とは異なる属性を意識するもので、中には、自分の権益を守ろうとするあまり、他の属性を排除しようとしたり、場合によっては攻撃的になってしまう者もいる。自分の権益を守るという防衛的な排除、例えば自分の家に知らない人が入ってこないようにするとか、自分の所有物を壊されないようにするなどの場合は、そのような傾向はポジティブかもしれないが、バランスを失い、過剰に自分の属性の利益、最悪の場合自分の属性どころか自分だけの利益を重視し、他の属性の者・他者の権利を不当に犯すような場合は確実にネガティブな傾向になる。
そのような過剰な排除傾向には誰かが歯止めをかけなくてはならないのに、ブレーキをかけるべき者・組織がブレーキをかけないどころか、場合によってはアクセルを踏んでいる、つまり煽っていることすらあるから「社会の弱者を叩く傾向」に歯止めがかからないのだと思う。
率直に言えば、首相や政府が積極的に「他者の権利を不当に侵してはならない」と釘をささないからそんな社会になってしまっている、という側面が少なからずある。例えば、首相や政府は、政府間対立に煽られた、不当な在日朝鮮人/韓国人差別を積極的に否定しない。それは黙認しているようにさえ見える。
台東区の件について、安倍首相は
避難所は全員受け入れるのが望ましいと国会で述べたそうだ(「避難所は全員受け入れが望ましい」安倍首相、ホームレス受け入れ拒否問題で答弁 BuzzFeed Japan)。彼にしては珍しく中身のある見解を示したようにも思うが、一方で、前段でも示したように自分は、彼らがこれまで積極的に「他者の権利を不当に侵してはならない」という意思表示をしてこなかったことが、今回の台東区の件に大きく影響していると考えており、「望ましい」は消極的過ぎで、「人権尊重に反する受け入れ拒否は許されない」ともっと厳しい態度を示すべきだとも思っている。寧ろ後者の認識の方が大きい。
そんな風に考えているので、安倍氏が「避難所は全員受け入れるのが望ましい」と述べたことを率直に評価する気にはなれない。「間違ったことは言ってないんだからそこは認めよう」と言う人もいるだろう。そのような人を否定する気はない。しかし彼は、これまでしてこなかった当然の発言を、やっと、しかも消極的にしたに過ぎず、自分は、嘘ばかりついている男が一つ当然のことを言っただけでは、評価する気には全くなれない。そんなことで褒めて貰えるのは、どんなに遅くても中学生までだろう。
トップ画像は、 Michael KrauseによるPixabayからの画像 を加工して使用した。