「おれのものはおれのもの おまえのものも おれのもの」は、言わずと知れたジャイアンの有名なセリフである。ドラえもんの「横取りジャイアンをこらしめよう」という話の中で、借りっぱなしだったのび太のマンガを返さないことを正当化する為にジャイアンが言い放ったセリフだ。映画版などでは頼もしい仲間にもなるジャイアンだが、基本的にはのび太をいじめるガキ大将キャラだ。ジャイアンの強引・横暴さを象徴するセリフは他にも、「いつかえさなかった!?えいきゅうにかりておくだけだぞ」「この町で俺にかなうものはいない。俺は王様だ。さからうものは死けい! アハハ。いい気持ちだ」などがあり、ジャイアンの妄言ならぬ猛言を集めた「ドラえもん ジャイアン猛言トランプ」という商品まで作られている。
文化庁所管の独立行政法人・日本芸術文化振興会が、芸術・文化を振興する活動への助成金の交付要綱を改め、公益性の観点から不適当と認められる場合に助成金交付の内定や決定を取り消すことができる、と新たに付け加えたことを複数のメディアが報じている。
「「公益性で不適当なら」助成取り消し 芸文振が要綱改正:朝日新聞デジタル」「東京新聞:「公益性の観点から不適当」で助成拒否が可能に あいトリ補助金不交付決定の翌日、要綱改正:社会(TOKYO Web)」によると、この要綱改定について日本芸術文化振興会は、助成が内定していた映画「宮本から君へ」に、麻薬取締法違反で有罪判決を受けたピエール瀧さんが出演しており、「助成によって国が薬物を容認するようなメッセージを発することになる恐れがある」として、7月に不交付を決定したことが改定の背景で、
あいちトリエンナーレの件とは全く関係がないと説明したそうだが、要綱が改められたのは、文化庁が「運営上の懸念を申告しなかった」として、あいちトリエンナーレ2019への補助金の不交付を決定した翌日とのことだ。
昨日の投稿でも触れたように、文化庁長官の宮田 亮平氏は、10/15の参院予算委員会で
あいちトリエンナーレへの補助金不交付を見直す必要はないと述べたそうだ(「補助金不交付を見直す必要はない」文化庁長官が参院予算委で答弁【あいちトリエンナーレ】 | ハフポスト)。宮田氏は、不交付の決定が妥当である根拠を、
今回の補助金の不交付の理由は、企画展の中止や再開にかかわらず、補助金申請者の展覧会の開催にあたり、来場者を含め、展示会場の安全や円滑な運営を脅かすような重大な事実について認識しておりました。と説明したそうだが、その説明で補助金不交付が妥当なのであれば、逆に言えば、運営者が展示会場の安全や円滑な運営を脅かすような重大な事実について認識していなければ、申請しようがないから不交付という決定には至らなかったということになるのではないか。あいちトリエンナーレの運営がそのような認識はなかったと主張していたとしても、その場合恐らく今度は、不交付という決定が妥当であるとする根拠を「重大な事実について認識が足りなかった」などと設定していただろう。これはあくまで推測でしかないが、兎に角不交付ありきでの根拠設定としか思えない。詳細が異なろうが、まるでジャイアンのように強引な理由付けを行っていただろう。
それらの事実について、文化庁に全く申請しなかったということによります。
それによって、不交付決定を見直す必要は“ない”と考えました。
日本芸術文化振興会の、公益性の観点から不適当と認められる場合に助成金交付の内定や決定を取り消すことができる、という要綱改定の理由が、彼らの言うようにあいちトリエンナーレの補助金不交付とは関係がなく、助成が内定していた映画に麻薬取締法で有罪になった者が出演しており、助成によって国が薬物を容認するようなメッセージを発することになる恐れがある、という話が事実に即していたとしても、その話もかなり強引だ。助成が内定していたのはあくまで映画であり、決して有罪判決を受けた個人ではない。そして助成が行われると国が薬物を容認したと受け取る者が出かねない、という話は、あまりにも市民の民度を低く見積もり過ぎており、日本芸術文化振興会は市民をバカにしているのではないか?とすら感じる。自分達の強引な主張を正当化する為に、市民をバカにしたり、ダシに使ったりするのは絶対に止めてもらいたい。
そもそも公益性とは一体どんなことを指しているのだろうか。 コトバンク・デジタル大辞泉は、公益とは、
社会一般の利益。公共の利益。と説明しており、「私益:個人の利益」の対義語ともある。前述の東京新聞の記事では、名古屋大大学院の日比 嘉高准教授の、
公益性の意味が曖昧なままでは、好き勝手に運用できてしまう。何が不適当なのか明確にしなければならないという見解を紹介している。つまり「公益性の観点から不適当と認められる場合」という条件設定は妥当とは言えないという話だ。
要綱は、公益性の観点で不適当と認められる場合は助成を取り消す「ことができる」と改定されたようだが、逆に言えば「公益性の観点で不適当と認められる場合でも、助成を取り消さないこともできる」ということでもあり、芸術活動についての、ある意味で生殺与奪権を、日本芸術文化振興会・文化庁・文科省・政府が握らせて貰うという宣言とも解釈できる。それらの組織による芸術活動の恣意的な解釈・制度運用を可能にしたも同様で、「私たちはジャイアンである」と言っているようなものだ。
つまり、公益性の観点で不適当と認められる場合は助成を取り消す「ことができる」という内容への要綱改定は、それらの意向に沿った活動だけに助成が出来てしまうということにもなりかねない。百歩譲ったとしても「公益性の観点で不適当と認められた場合は助成しない」でなければアンフェアだ。
勿論、公益性云々という話自体にそもそも妥当性があるとは思えないが、それを度外視して「公益性の観点で不適当と認められた場合は助成しない」が妥当だとしたら、昨日の投稿でも書いたように、東京オリンピックは真っ先に国家予算による助成を取り消す対象になるのではないだろうか。コンパクト五輪・復興五輪という美辞麗句を掲げ、招致活動に裏金が使われたり、招致活動で首相がアンダーコントロールという嘘をついたり、国立競技場の建て替えやエンブレムの盗作問題、IOCに「暑さ対策が杜撰だからマラソンは札幌でやれ」と言われるような状況、ボランティアはスポンサー以外の飲料を飲むな、スポンサー以外は東京2020などの文言を一切使うな等過剰な商業主義、このような大会に公益性があると果たして言えるだろうか。自分には全くそう思えない。
また、18億円もの予算をかけて総務省が2017年に作った、サイバー攻撃などによる情報流出を防ぐ為のシステムが、使い勝手が悪いなどの理由で全く使用されず、今年・2018年3月に廃止された、という話が数日前に報じられたが(政府の情報システム、全く使われず廃止 開発費18億円:朝日新聞デジタル)、このシステムは明らかに公益性の観点で不適切と認められる。そうなると総務省は公益性のない事案に公金を用いる組織ということになりかねず、少なくとも当該予算の弁済を要求するか、厳しく言えば今後総務省には一切の予算を配分しないのが妥当、ということにもなりかねない。
「失敗は成功の基」という観点で言えば、このような失敗にも公益性はあると言えるだろうが、その話が通るのだとしたら、どんなに評価の低い芸術活動についても、評価できないことが分かる、今後の活動の糧になるという公益性は認められることになるから、公益性の観点で不適当な活動など存在しないことになるだろう。国の予算の使い方の中にも公益性の疑わしい事案は少なからずある。公益性云々という話を積極的に持ち出すと、自分達の首を絞めるか若しくは大きな矛盾を生むことになる。今の行政は矛盾を強引に正当化するスタイルだ。そんなスタイルに慣らされてはいけない。
このように考えれば、日本芸術文化振興会や文化庁の説明が如何に強引で横暴か、そしてそれを黙認する、というか、裏でそうなるように仕向けているのではないか?とさえ疑いたくなる文科省や政府も含め、それらが如何に傲慢かということが分かるのではないか。
最後に「まずまず発言 二階氏「言葉尻捉えても復旧始まらない」 [台風19号]:朝日新聞デジタル」という記事も付け加えておく。強引・傲慢・横暴なのは政府のみならず、一体化している与党・自民党も一緒だ。二階氏の発言だけを以て「自民党は横暴」とするのはどうか?とも言えるだろうが、彼は党幹事長である。党内から彼に対する批判・指摘等が示されないようであれば、彼の主張は概ね自民党の総意と考えてもよいのではないだろうか。