あなたは「伝統」という言葉からどんなイメージを連想するだろうか。個人的には「伝統」にあまりよいイメージを抱けないが、多くの人は概ね肯定的に受け止めるのではないか?と想像する。コトバンク:デジタル大辞泉 では「規範的なものとして古くから受け継がれてきた事柄。また、それらを受け伝えること」と定義している。確かに必要な規範だから長く受け継がれていることも少なくないないのだが、逆に、伝統だからという口実によって、決して現在の価値観としては好ましくないのに続けられてしまっていることもある。例えば教師が存在意義を明確に説明できない所謂ブラック校則などはその典型的な例だ。自分にとっては、後者のケースのように「伝統だから、しきたりだから」と押し付けられる不合理なことが多く感じられる為、「伝統」によいイメージも抱けない。
「カトリック、既婚男性も司祭に 900年の伝統を変更へ:朝日新聞デジタル」という記事が10/27に報じられた。都市から遠く離れたアマゾンの奥地では、ミサを執り行う司祭の人材が不足しており、「既婚者でもミサを行えるようにしてほしい」という要望があるそうで、ローマ・カトリック教会で、これまで独身男性しかなれなかった司祭に既婚男性もなれるようにする提言がなされ、司教会議で採択されたそうだ。
率直に言って「それでも司祭になれるのは男だけかよ」という気もするが、カトリック世界のことにはあまり詳しくないので、ここではそれについては割愛する。
この件から分かることは、
伝統とは、伝統だから続けなくてはならないものではなく、続ける必要のあることが自然と伝統になる
ということだ。合理性がなくなれば、たとえそれが長く続いた「伝統」であっても、止める・捨てるのが筋だ。続ける合理性のないことを「伝統だから」という理由で無理矢理続けるのは不合理以外のなにものでもない。続けたい人だけが続けるだけなら何も言わないが、強引に押し付けられたり巻き込まれるのは御免被りたい。昨今、というか以前からのような気もするが、特に昨今、日本では「伝統だから続けるべきだ」という考え方の人達の声が大きくなっているように思う。例えば10/21に「「女系天皇」を危惧 「王朝変わってしまう」自民有志提言 - 産経ニュース」という報道があった。
「王朝が変わる」などと言っているが、もし女系天皇になると王朝が変わるのだとして、一体それの何がまずいことなのか。それについても「皇統は126代にわたり、父方の系統に天皇を持つ男系で維持されてきた」からという説明しかなく、つまり、これまで続いてきたから続けなければならない、以上の説明がない。そんなことを与党政治家の一部が言っているのである。自分にはまるでカルトのようにしか思えない。産経新聞も産経新聞で、誰かの発言の引用ではなく、
いずれも父系をたどると初代の神武天皇に行き着く男系だ。などとしている。神武天皇は神話に登場する伝説上の天皇である。 一応日本の大新聞の一つである産経新聞が、歴史と神話を混同した記述のある記事を掲載してしまっている。
この自民党議員らは、「旧宮家男子の皇族復帰を可能に 自民有志の提言案 - 産経ニュース」などと言っているのだが、何十年も前に一度皇族から離脱した者らを再び皇族にすることだって、定義によっては「王朝が変わる」と言えるのではないだろうか。男系男子しか天皇になれないというしきたりを、「伝統」だからという理由だけで何が何でも維持したい、と言っているとしか思えない。
側室制度が否定されている現在の状況では、女性/女系天皇を認めなければ安定的な天皇制の維持は出来ないということは、6/18の投稿でも書いた。「伝統」が全て胡散臭いとは言わないが、「伝統だから続けなければならない」という胡散臭い言い分にしがみつくのは止めたほうがいい。それとも彼らは天皇制を更なるジリ貧に追い込みたいのだろうか。
「日本だけが長い「世界史年表」の話 - 電脳塵芥」が話題になっている。一部の人達が、「日本だけずーっと日本ですごい」という話の根拠にこの年表をしばしば持ち出すが、日本はずっと一貫性のある「日本国」だと認識しているのは日本の一部の層だけではないか、ということについて書かれたブログ投稿で、その理由として他地域で用いられている年表を示し、この年表の日本についての記述の不適当さを指摘している。
同じ日本であっても、少なくとも鎌倉・室町・江戸は同じ政治体制とは言えない。確かに天皇は代々続いているが、武家政権の間の天皇は単なる神輿に過ぎない存在だったし、天皇の存在を庶民がみな知っていたかと言えば、そんなことはあり得ない。江戸時代まで日本人にとっての国は、今の都道府県に当たる藩で、統治者は殿様、つまり領主や大名だったはずだ。天皇が神輿だったのは近代以降も変わらなかった。天皇万歳は倒幕勢力が自分達は賊軍ではないという正当化と、新政府樹立後に民衆の反発を抑える為に始めたものだ。
天皇が代々続いていることだけに注目しても「長いからえらい!すばらしい!」とすうるのもおかしい。「日本の天皇は長く続いているからえらい!すばらしい!」と世界中の人が思っているなら、昨日の投稿でも触れた、令和の即位礼への出席者について、多くの国と地域が平成の即位礼の際よりも格を下げるなんてことは起きないはずだ。
「伝統」の中には、長い積み重ねの中で合理性を追及した結果も複数存在しており、「伝統」全てを否定するつもりは全くない。自分が否定・拒否したいのは「伝統だから続けるべき」という理由で押し付けられる合理性のないもの・ことだ。「石の上にも三年」などの慣用表現があるように、日本では忍耐・我慢を美徳とする傾向が強く、耐え忍んで長く続けることを、手放しで素晴らしいとする風潮もあり、そんな認識や風潮を背景に「伝統だから兎に角続けるべき」という主張もしばしば行われる。
安倍首相は少し前に「憲法改正議論をしないのは思考停止」と言っていた。彼は「憲法のどこを変えるかを議論しないのは無責任」という意味でこの表現を用いおり、「憲法改正する必要はない」という主張も認めた議論をすべき、という意味ではなかったので、全くこの表現に賛同はできない。そんなことを言っていた首相や、一部の自民党議員らが示す「伝統だから続けるべき」という感覚こそまさに思考停止だ。
本来「伝統」とは、長い年月と経験で培われてきた合理性のあるしきたり・規範、のはずだ。「伝統だから」という理由で合理性の失われたことを無理矢理続けようとしたり、続けることに意味を見出そうとすることは愚かな行為だ。伝統が重要・続けることが大事なら、なぜ2020年東京オリンピックに旧国立競技場を使用せずに建て替えることになったのか。なぜ日本人は日常的に和装をせず洋服を着るようなったのか。スーツにネクタイでなく紋付袴で議会に出席する議員が独りもいないのか。
「伝統」を胡散臭いものにしようとするのはどうか止めて欲しい。
トップ画像は、ファイル:Kyoto-gosho Kenreimon (closed).JPG - Wikipedia を加工して使用した。