Whitewashing という表現がある。元来は壁を漆喰で白く仕上げることや、木材を白く塗装した仕上げのことを指す英語表現で、「White wash」とGoogle画像検索するとそのような結果が得られる。しかしこの表現は「うわべだけを飾る」というネガティブな意味でも用いられる。更に「白人化する、白人に媚びる」などの人種差別的な意味合いや、もっと限定した「非白人の役に白人を配する」ことを指す場合にも用いられている。
欧米、主にアメリカの現状を前提とした表現であり、ホワイトウォッシュされるのは黒人だけでなく、ネイティブアメリカンやアジア人の役を白人が演じる場合もある(映画におけるホワイトウォッシング - Wikipedia)。
昨日ハフポストにこんな記事が掲載された。
シンプソンズ「白人キャラ以外は、白人以外が演じる」 FOXが声明を発表。ネトフリ、アップルのアニメでも進む「非白人化」 | ハフポスト
現在北米で起きている #BlackLivesMatter のムーブメントを受けて、
FOXの長寿アニメ「シンプソンズ」は、白人以外のキャラクターに白人俳優を起用しないことを発表した。という内容の記事である。ジェニー スレートさんはユダヤ人系アメリカ人、クリステン ベルさんはスコットランド/ポーランド系アメリカ人の、つまり白人俳優/声優である。
Netflixシリーズ「Big Mouth」は、声優のジェニー・スレート氏が有色人種のキャラクターであるミッシー役を降板すると発表した。
俳優のクリステン・ベル氏は、アップルのアニメシリーズ「セントラルパーク」で有色人種のキャラクターのモリーを演じないことを自身のインスタで公表した。
自分が声を大にして言いたいことは、
演技とは、自分とは異なる何かを演じることであり、基本的には、異なる人種を演じる事自体に問題はない
ということだ。 この大前提を理解していないと、この問題をまともに議論することはできないと考える。この大前提がないと、「白人が白人以外を演じることに問題があるのなら、日本人が日本人以外を演じることにも問題性が生じる。例えば日本の宝塚歌劇団が、登場人物が全てフランス人であるベルサイユのばらを上演することも不適切になるし、日本人ではない設定のキャラクターが登場するアニメは全て、外国人声優を起用して収録し直さないとならなくなる」ということになってしまいかねない。つまり、例えば各国で作られる日本アニメの吹替え版も不適切ということにもなってしまい、キャラクターの国籍に合った声優を起用した字幕版以外はアウトということにもなりかねない。では喋る犬のキャラクターはどうするのか、宇宙人は?架空の生き物、幽霊などは?という問題も出てくる。
このような点から考えても、異なる人種を演じることが問題ではない、ということは明らかだ。
前述の 映画におけるホワイトウォッシング - Wikipedia には、例として
- ハリウッド版「ドラゴンボール」:白人俳優ジャスティン・チャットウィンが主役の孫 悟空を演じた
- ハリウッド版「ゴーストインザシェル」 :白人俳優スカーレット・ヨハンソン、ピルウ・アスベック、マイケル・ピットが日本人役に配役された。講談社海外事業部長サム・ヨシダは「今のところ、スカーレット・ヨハンソンは役に合っている。彼女はサイバーパンクの感覚を持っている。そして我々は日本人女優が主役になることが想像つかない。世界中に日本の作品を広めるチャンスである」と語った
- ハリウッド版「ザ・キング・オブ・ファイターズ」:ビデオゲームのザ・キング・オブ・ファイターズを基にした武闘アクション映画で、白人俳優ショーン・ファリスが主演の日本人クサナギ・キョウ役を演じた
勿論逆に海外ドラマ等の日本版・アジア版を作成する際にも一切のアレンジが許されず、日本人・アジア人がそれを演じるのは御法度ということにもなりかねない。そんな馬鹿な話があるだろうか。そんなことに鑑みればやはり、異なる人種を演じることに問題はない、というのは間違いない。
余談ではあるが、映画ドラゴンボールに関して、孫 悟空を白人が演じたことが指摘されているが、そもそも孫 悟空というキャラクターの名前自体、中国の物語・西遊記の主人公と同名であり、日本の漫画が中国文化を盗用しているということにもなる恐れがある(文化の盗用 - Wikipedia)。この種の文化の盗用やホワイトウォッシュの問題は、確かに問題のある場面もあるものの、あまり過敏になり過ぎるのは好ましくない。そこには文化の発展を阻害しかねないという懸念があるからだ。
だが、自分は「だからホワイトウォッシュなんて指摘は全く意味がない」とか「白人もこれまで通りに異人種キャラクターを演じても全く問題はない」とは思わない。何度も言うが、異なる人種を演じること自体には何も問題はない。しかし、映画におけるホワイトウォッシング - Wikipedia で挙げられている例をみれば分かるように、白人が非白人を演じるケースや、本来は非白人なのに設定自体が白人に置き換えられるケースが余りにも多い。カウンターとして逆のケースもあるがそれは確実にカウンターによる少数事例である。つまり、これまで白人が他の人種に対して優遇されてきた、という状況は明白だ。
この件は男尊女卑の問題とも似ている。幾つかの国では、社会に残る男女の性差別による弊害を解消していくために、積極的に格差を是正して、政策決定の場の男女の比率に偏りが無いようにする仕組み・クォーター制を導入している(クオータ制 - Wikipedia)。
本来は、政治家や議員の比率を数字で割り当てるのではなく、個人個人の資質を判断して選ぶのが公平であるが、例えば日本の国会議員の女性の割合は2018年の時点でたった10.2%だ。勿論日本の人口における女性の比率が10%程度なんてことはなく、男女比はほぼ半々、寧ろ女性の方が僅かに多い。つまり日本の国会議員の男女比には間違いなく大きな偏りがある。日本の国会議員の女性比10.2%はフランスの39.7%、イギリスの32.0%、アメリカの23.5%を大きく下回っていて、異常と言ってもいいくらいの偏りだ。
因みに与党・自民党の女性議員比率は7.8%と、国会全体の割合を更に下回る体たらくだ。つまり他の政党よりも圧倒的に議員数の多い与党の男女比に異常な偏りがある、自民党が異常事態の元凶と言っても過言ではない。
もしこの日本の国会議員の男女比が、有権者が個人の資質を公平に判断した結果だと言うのなら、日本人女性というのは、他の国の女性に比べて著しく能力が低いということになる。勿論そんな話を真顔で語る人がいるとすれば、それは単に性差別を厭わない人物だ。日本の女性の能力が低いなんてことはない、ということは、東京医科大などが入試で女性や浪人生などを不当に減点していた問題について、そのような不正を排除した場合に女性の合格率が男性を上回る結果だったことからも明らかだ。
「不正排除した」医学部女子合格率、男子超える : ニュース : 教育 : 教育・受験・就活 : 読売新聞オンライン
そんなことを勘案せずとも、日本の国会議員の男女比10.2%は明らかに異常であり、実状に反した結果が民主主義的に出るのだから、男尊女卑解消の為のカンフル剤として、やや強引な是正手段であるクォーター制を導入することには一定の合理性がある。
それと同様に、本来は異なる人種を演じる事には問題はないものの、これまで白人が他の人種に対して優遇されてきた実状を勘案すれば、過渡期の対応として、白人以外のキャラクター・役は白人以外が演じることを原則とするにも妥当性はあるだろう。
だが一方でやはり、その対応の拡大解釈が起きる恐れも否めない。それは例えば、所謂ブラックフェイスに関する問題にも見られた(2018年1/11の投稿)。前述のように白人以外のキャラクター・役は白人以外が演じることを原則とするにも妥当性はある。だが同時に、演技とは自分以外の何かに扮する行為であり、基本的には異なる人種を演じることに問題はない、ということも忘れてはいけない。
トップ画像は、cs32によるPixabayからの画像 と、Photo by Yoann Siloine on Unsplash を組み合わせて加工した。