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日本人は繊細でよく気が付き、管理が得意?


 チーズは嫌いで食べられない。だがチーズバーガーやピザは美味しい。と言う友人がいる。彼は本当にチーズが嫌いなのだろうか。チーズ単体では不味くて食べられないそうだから、チーズが好きではないことには違いなさそうだが、チーズが嫌いとは言えないのではないだろうか。自分も、唐辛子を単体で食べる気にはならないし美味しいとは思わないが、唐辛子が使われている料理は、勿論使用される量などにもよるが、美味しい。でも唐辛子が嫌いとは思わない。

 こんな話は結構あって、トマトは嫌いだがトマトケチャップ、トマトスープ、トマトソースはイケる。という人には頻発に出くわす。牛乳は嫌いだけどヨーグルトやヨーグルトドリンクはOKって人も結構いる。人の好みや傾向というのはそれなりに複雑で、単純に考えると間違った認識に陥る場合が結構ある。
 日本人は繊細でよく気が付き、物事を管理するのが得意、日本スゴイ! という風潮が間違いなくある。そんな論調のテレビ番組はかなり多い。でもそれは本当だろうか。勿論全く間違っているとは言えない。そんな側面も確実にあるが、どう考えても「何事においても」とは言えない。

 カメルーン出身の漫画家・星野 ルネさんがこんな動画をYoutubeで公開している。

【国際】ジェスチャーについての大前提 日本人はシャイじゃない? 海外の反応は?


 タイトルの通り、彼が5/26にツイートした漫画・なぜ外国人は日本人に比べてジェスチャーが大きい・多いのだろう、という話が主題の動画で、彼は、日本は概ね日本語が母国語の人で構成されており、ジェスチャーがなくてもコミュニケーションが容易に成立するが、1つの国の中に多様な言語が混在していたり、移民等によってその地で主流の言語に明るくない人が一定数いる地域では、コミュニケーションを成立させるのにジェスチャーが欠かせないから、だと考察している。


 動画内で話はジェスチャー以外にも波及している。彼がカメルーンに何年かぶりに帰った際に、日本人のノリで「ひさしぶりー!」と手を振る程度で叔父に軽く挨拶したところ、「ハグしないなんて、お前はなめてんのか!」とキレられたという話から、日本は、全てを言葉にせずに周りがそれを汲み取る文化だが、世界的に多いのは、言わないと分からないことを前提に積極的に意思表示する文化、という話、日本のそのような傾向の長所と短所、そして日本人がジェスチャーをあまりしないのは、日本人がシャイだから?という話にも及ぶ。

 シャイで目立つことを避けるので、大きな手ぶり身ぶりを避ける、という側面も日本人にはあるだろうとしつつ、ルネさんは「日本人もお祭りになればみんなで大きな振り付けのダンスをする」と指摘している。また「日本人はシャイって言いつつ、銭湯とか温泉では平気で他人の前でみんな裸になる」とも指摘。それを理由に、ヨーロッパ人の知り合いに「日本人はどこがシャイやねん!」と言われたとも。
 ただ、確かに欧米の温泉は水着着用が基本的(北欧のサウナ文化など例外もあるが)だが、ヌーディストビーチという文化もあったりする、だから一概には何とも言い難くどっちもどっちな部分がある、とも話している。ヌーディストビーチはそれ程一般的ではないが、欧米文化圏では、ビーチなどでは女性がトップレスになることを日本人やアジア人程恥ずかしがらないし、Tバックなど露出度の高い水着も決して珍しくない。
 因みに、ルネさんは以前にこんな漫画も描いていて、カメルーンでは親の裸を子どもが見るのはタブーなのだそうだ。


 シャイの定義の話の中で、
知り合いのとても恥ずかしがり屋なドイツ人は、人前で喋るのも苦手な程だが、クラブに行くと人前なのにガンガン踊る
という話も出てくる。ルネさんがそのドイツ人に「お前シャイなんじゃないの?」と聞くと、「いやクラブでは普通踊るでしょ?」と返ってきたそうだ。日本人のお祭りや盆踊りと似た話だ。
 ルネさんはシャイ/シャイじゃないはケースバイケースだから、単純に考え過ぎると間違った認識に繋がる恐れがある、あと日本人は多分シャイではない、と締め括っている。


 そんな話を踏まえて、序盤に提起した「日本人は繊細でよく気が付き、物事を管理するのが得意」は本当か?を考えてみる。確かに日本人には他地域や他の民族に比べて繊細で細かくよく気付く面もある。それは、ルネさんの動画でも触れられている、全てを言葉にせず周りが汲み取る文化の影響で、周囲に気を配る人が多いことによるものだろう。だからサービス業が発達し、きめ細かなもてなしが大衆レベルの店や宿でも受けられる。そこから徹底した管理にも繋がっている。だから世界で最も正確で遅れの少ない電車の運行が実現しており、そんな面では「日本人は繊細でよく気が付き、物事を管理するのが得意」は本当だろう。
 だが、確実に「日本人は繊細でよく気が付き、物事を管理するのが不得意」と言える面もある。 日本人が本当に繊細でよく気が付くならば、公約達成ほぼゼロで、しかも差別的な言動が複数見られる知事へ、多数の都民が票を投じて再び信任する(7/6の投稿)などあり得ない。大雑把でいい加減だからそんな知事が再選できるのだろう。それは大阪で維新というハリボテ満載の政党が何年も支持され続けていることや、汚職や差別的な暴言、合理性を欠いた説明が蔓延し、公文書の改竄・捏造・不適切な廃棄等が常態化している安倍自民党政権が7年以上も続いていることからも明らかだ。繊細でよく気が付く国民がそんなものを放置するだろうか。するわけがない。
 選挙の投票率が50%前後かそれ以下というのも「物事を管理する能力に長けている」という話と相反する。日本人の管理能力が高いのだとすれば、なぜ政治家の管理にはそれが発揮されないのか。日本人が政治家の管理に積極的ならば、投票率は少なくとも80%を超えている筈だ。つまり、政治に関して言えば、日本人は概ねズボラで無頓着、放任主義の人ばかりと言っても過言でない。


 昨今の日本の政治情勢などを見ていると、日本人は管理するのが得意なのではなく、管理されるのが得意、つまり自分の頭で考えたがらず、多数派に右へ倣えするのが得意な国民性なのではないか?と強く感じる。普段は目立ちたがらないのに、盆踊りなどでは大きな振り付けのダンスを踊るのも、公衆浴場では平気で人前で裸になれるのも、周りがそうしているから右へ倣えしているから、と考えると辻褄が合う。

 日本人は自分の頭で考えることが苦手で、多数派に迎合しがちな性質

というのが実情だろう。


 トップ画像は、Photo by amirali mirhashemian on Unsplash を加工して使用した。

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