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発熱する恐怖


 あからさまに新型コロナウイルスの感染が再び拡大していることについては、この数日何度も書いてきたので、今日は何人の感染者が…ということを書く気にもならない。同じことを書くのは面白くないし、再拡大が始まってからもう1ヶ月以上が経つが、その間に行政がやったことと言えば、Gotoトラベルという、英文法的にもおかしい狂気の旅行促進政策と、布マスクの再配布検討ぐらいで、そのようなことを書くのも暖簾に腕押し感しかない。

 それでも、諦めて指摘や批判をしなくなるのは、政府や行政機関の思う壺でしかなく、声を上げることを止めてはならないとは認識しているのだが、メディアや有権者の中には未だに他人事な者も多く、そんなウンザリした気分も込めて、7/30の投稿のタイトルを「「さよならにっぽん」と言いたくなるようなことばかり」とした。


 再び新型コロナウイルスの感染が拡大している状況で、自分も初めて発熱を起こした。昨日の昼食後あたりから急激にだるさを感じ始め、最初は調子悪いな…と思っていたのだが、この湿気の高い季節なのに、顔の皮膚が乾燥し始め、更には手足に軽い痺れを感じ始めた。悪寒がする、のとは別の、自分が発熱した時に感じる症状がモロに出ていた。昨日は幸いなことに金曜だったので、最低限やっておくべき案件だけに区切りをつけて、18時過ぎに帰宅し熱を測ってみると、案の定38.6度の熱があった。
 こんな状況なので頭には「もしや…」という思いも浮かぶ。しかし昼にざるそばを食べた際にはめんつゆの味を確実に感じたし、帰宅途中に飲んだカルピスも甘かった。新型コロナウイルスに感染すると味覚や嗅覚に異常が生じると言われており、それに該当しなかったので、多分単なる夏風邪だろう、と考えていた。

 昨夜は熱の所為で寝苦しくよく眠れなかったものの、今朝体温を測ってみると36.8度まで下がっており、決して体調がよいとは言えないが、それでも家の中で普通に過ごすには問題のない体調には戻った。日中は熱がやや下がり、夜になると熱が再び上がるという経験がこれまでに何度かあるので、まだまだ油断は出来ないが、それでも症状は軽い風邪のような状態なのでひとまずは安心だろう。


 自分はかなりの病院嫌いで、38度以上の発熱でも風邪程度では病院にはいかない。だから今回も病院に行く気は全くない。しかし、この自分の様な症状でも、新型コロナウイルスに感染したかを検査して欲しいと感じる人はいるだろう。だが、どうやらこの程度の症状では検査して貰えないのが日本の現状のようだ。
 確かに検査で陰性とされても、勿論絶対陰性という保証はどこにもなく、発熱の症状が出たら少なくとも数日は他者との接触を極力避ける等の対応が妥当だろう。つまり検査しようがしまいがすべきことに変わりはない、というのが適切な認知ではないだろうか。しかし、ごく一般的な市民は、発熱だけで1週間程度仕事を休んで自宅隔離する、なんて全く現実的ではない。そもそも風邪でも休めない社会の風潮自体が、新型コロナウイルス危機云々以前に異常なのだが、そんな状況があることは事実なので、風邪の症状が出たら自主隔離できるような金銭的なサポートをするのが行政の役目だが、現在の日本で充分にその種の政策が講じられているとは言い難い。
 また、一人暮らしではなく家族と同居しているなら、更に隔離は難しい。特に子を持つ親が発熱しても、子供の面倒は見なくてはならず、自宅での自主隔離なんてのはまずできない。そのような立場の人達へのケアは充分なのだろうか。

 また、積極的に検査をしないと、自分のように「これは新型コロナウイルスではない」と勝手に判断し、感染しているのにいつも通りの行動をしてしまう人だって少ないだろう。検査の信頼性が100%でなかったとしても、決して信頼性は0%ではないのだから、積極的に検査した方が、しないよりも感染者の行動を抑制し感染の拡大を防ぐ可能性が上がることは明白だ。にもかかわらず、未だに日本では積極的検査に否定的な人が、専門家と称する人の中にもいる。


 積極的な検査をするでもなく、市民が活動自粛するのに充分な支援をするでもなく、パチンコ屋、夜の街を生贄にするような、非合理的な主張を繰り返したり、感染抑止効果は薄く、ないよりはマシ程度でしかない布マスクの配布を、既に一度強い批判にさらされているのにも関わらず、再び行おうとするような政府や自治体の非合理性は、この1ヶ月に右肩上がりで増えてしまった新規感染者の数を見れば明白だ。

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