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親近感は興味を喚起する

 モータースポーツの世界も他に漏れず今年は新型ウイルスの影響に晒されている。バイクレースの世界選手権の1つ、レース専用のバイクで争われるMotoGPシリーズも、スケジュールの大きな変更を余儀なくされた。そんな平年とは明らかに状況の異なる2020シーズン、同シリーズでは日本人選手が昨年までとは比べものにならない程活躍している。


 MotoGPシリーズには3つのカテゴリがある。1000ccクラスでシリーズ同名のトップカテゴリ・MotoGP、4気筒600ccクラスのMoto2(現在はトライアンフの3気筒765ccエンジンの使用が義務付けられている)、そして単気筒250ccクラスのMoto3だ。
 コンスタントに日本人選手の参戦はあったが、ほんの数年前まで日本人選手がトップ争いをすることは殆どなかった。そもそも各カテゴリに1人参戦しているかどうかで、トップ争いもあっても年に1-2回あるかないかだった。しかし今年は様相が違う。Moto2クラスに参戦する長島選手が開幕戦でいきなり勝利を挙げ、長い中断を経た後に開催された2戦目でも2位に。トップカテゴリに参戦している中上選手も第6戦で予選2位、初のスターティンググリッド1列目を獲得。レース中のアクシデントで途中中断があり、再開後は振るわなかったものの、中断までは2位を走り初優勝の目も確実にあった。
 しかし何と言っても一番アツいのはMoto3クラスである。Moto3クラスには、この数年5名前後の日本人がコンスタントに参戦している。昨年の開幕戦で鳥羽選手が日本人選手として12年ぶりに優勝を果たし、更に鈴木選手も昨シーズン同クラスでの初優勝を果たした。他の日本人選手もしばしばトップグループをうかがう活躍を見せるなど、昨年から既に日本人選手の活躍は始まっていたが、今年はそれに更に拍車がかかっている。中でも目立っているのは鈴木選手と今年参戦2年目の小椋選手だ。鈴木選手は予選トップ争いの常連、第3戦で優勝、小椋選手はまだ優勝経験はないものの、今期既に6戦中4度の表彰台を獲得している。昨日も第7戦の予選が行われ、小椋選手は見事ポールポジションを獲得、鈴木選手も3位につけた(トップ画像)。

 やはり日本人選手が参加していると心が躍るし、活躍していれば尚更だ。MotoGPに限らず他の競技/分野でも、日本人選手が参加すれば日本での注目度は高まるし、更に日本人選手が活躍すれば更に注目は集まる。ノーベル賞だって日本人が候補に上がれば注目されるし、受賞したとなれば大手報道各社はこぞって取り上げる。テニスだって錦織選手の活躍で注目度が再び上がり、そして大坂選手の4大大会優勝で更に盛り上がりを見せている。
 それは日本に限ったことではない。どこの国だって自国選手、もしくは出身の選手、何かしら所縁のある選手が活躍している競技や分野に注目が集まる。またそれは国籍や民族性に限ったことでもない。例えば、日本を代表する音楽フェスにフジロックフェスティバルとサマーソニックの2つがあるが、フジロックよりも明らかにサマーソニックの方が観客の年齢層が若い。フジロックは苗場という山の中で、サマーソニックは幕張メッセ/舞洲スポーツアイランドと都市部で開催するので、サマーソニックの方がアクセスのハードルが低く、とっつきやすいという側面もあるものの、毎年の出演者ラインナップを見るに、サマーソニックの方が間違いなく若者受けするアーティストが多い。つまり演者の傾向が客層の傾向に繋がっていると言えるだろう。勿論鶏が先か、卵が先かであり、客層の傾向が演者の傾向に繋がっている可能性もあるが。

 9/10の投稿で、TOKYO DANCE MUSIC WEEK2020 について、

自分の世代にとってはとても魅力的な出演者ばかりだが、いかんせん20代以下の世代が少なすぎではないか?

と書いた。詳しくはそちらを読んで欲しいが、20代以下の出演者がいなければ、若い人達の興味を惹けないのではないか、しかも男性ばかりだったので、おっさんが思い出語りをしているだけみたいな印象になっているのではないか、という意図を込めてそう書いた。TOKYO DANCE MUSIC WEEK2020 の配信を行っていた Dommune を主催する宇川 直宏さんが、「明日大半が若い世代!!!!!!!!だと思いますよんーー!!!!!!!」と言っていたけど、結局最後の金曜日の放送まで、若い世代が少ない感は否めなかった。

 TOKYO DANCE MUSIC WEEK2020の実行委員長のNaz Chrisさんが、昨日こんなツイートをしていた。

彼女の言っていることが全くおかしいとは思わない。そのような視点があっても何もおかしくはない。そして彼女は、自分が9/10の投稿で示した主張のような話を前提に、このようなツイ―トをしたのではないと思いたい。ただ、TOKYO DANCE MUSIC WEEK2020 の Dommuneの放送分が全て終わった翌日というタイミングでのツイ―トだったので、どこか釈然としない気分にもなった。
 Naz Chrisさんは「よく女子DJが晒される問題」としていて、自分が言っているのは、主にDommuneでDJ Mixが始まる前の議論の場についての話だったから、厳密には少し毛色の話だとも思う。勿論、彼女が言うように「ババァじゃなくて若い子を出せ」的なニュアンスなら、それは間違いなくハラスメントだろう。でも「若い子を番組に出せ、イベントに出せ」には、そうではない意図がある場合もある。だから彼女のツイートには、そんな風には思ってないかも、とも思いつつ、決めつけのようなニュアンスも感じてしまった。

 長く継続して定期開催しているクラブイベントの中には、イベントづきの客が多く、回を多く重ねる毎に、時間の経過と共に、客の年齢層も比例して上がっていく場合がある。勿論それでいいという考え方もあるだろうが、 若い層も取り込まなければイベントの存続は危ぶまれる。それは箱自体にも同じことが言える。新規の箱づき客を開拓していかなければ、箱の存続は怪しくなるし、業界全体だって同じで、最近のテクノ界隈は決して若い人が多いとは言えず、若手/新規客の開拓が存続の為に重要だ。それは音楽界隈に限らずどこでも同じだ。
 つまり、「ババァじゃなくて若い子を出せ」的なニュアンスでなく、男女に限らず若いDJを育ててイベントに出していかないと、イベント、箱、業界の存続が怪しくなるよ、という意味での、「若い子を番組に出せ、イベントに出せ」だってあるんじゃないだろうか。自分がバイクレースに興味を持つようになったのは、1994年のWGP(MotoGPの前身)日本戦へスポット参戦した、自分と同世代の阿部 典史選手がいきなり、当時のトップライダー・ケビン シュワンツ、マイケル・ドゥーハン選手らと同等にトップ争いを繰り広げ、彼らを抑えてトップを走りながらも残り3周で転倒リタイアしてしまうという、センセーショナルなデビューを飾ったことがきっかけだった。

 昨日の投稿でも書いたように、 ツイッターは140文字の表現というシステム且つ基本的には独り言であり、曖昧な表現が生まれやすい環境だ。Naz Chrisさんは「ババァじゃなくて若い子を出せ」的なニュアンスの「若い子を番組に出せ、イベントに出せ」だけを念頭に、そのようなツイートをしているのだろうが、そうではなく、「ババァじゃなくて若い子を出せ」的なニュアンス以外の「若い子を番組に出せ、イベントに出せ」も含め、全般的にそのような話はアウト、と言っているようにも読めてしまう為、誤解を生む恐れがありそうだ、と感じた。

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