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無関心は無責任と同義

 「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」は、米ソ冷戦と各国の核開発競争、日米安保などを背景にして、1967年に首相の佐藤 栄作が示した非核三原則である。1976年の核拡散防止条約採決に際しては「非核三原則が国是として確立されている」という表現を含む附帯決議が、1978年には「非核三原則を国是として堅持する我が国」という表現を含む決議も国会で採択されている。


 非核三原則は国会決議ではあるが法制化はされていない。また2002年の小泉政権下で、当時官房副長官だった安倍 晋三が「核兵器の使用は憲法上問題ない」と発言し、官房長官だった福田 康夫も「国際緊張が高まれば国民が(核兵器を)持つべきではないか、となるかも」などと発言したこともあった。

しかし批判を浴びて福田は「非核三原則廃止はない」とし、首相だった小泉も「私の内閣では堅持」と述べた。
 また日本は、1994年から連続して毎年、国連総会の軍縮委員会核廃絶決議案を提出している。

だが日本は2017年に国連で採択された核兵器禁止条約に反対する立場を示し、それは今も変わっていない。その核兵器禁止条約の批准国・地域が、10/24に条約発効条件の50の国と地域に達した。

 核兵器禁止条約が国会で採択される以前、日本による核廃絶決議はそれなりに評価されていた。しかし、前述の時事の記事「日本の核廃絶決議案を採択=軍縮に焦点、賛成減-国連:時事ドットコム」に、

オーストリアが提出した核禁止条約への加盟を求める決議案は賛成119、反対41、棄権15で採択された。日本は反対した

とあるように、日本が禁止条約への反対の態度を示し続け、決議案でも条約について触れないことなどにより、その評価は明らかに下がっており、同決議に賛成する国も減っている。
 核兵器禁止条約が採択された2017年、前年核廃絶決議に賛成したコスタリカの代表は、

2017年は核軍縮の転換点。核禁条約ができたことは、無視できない画期的な出来事のはずだ。今年は賛成できない

として、決議案の採択を棄権した。コスタリカは核兵器禁止条約に関する国連での交渉で議長国を務めていた。また、同条約が採択された2017年に日本が提出した決議案は、前年まで「核兵器のあらゆる使用による壊滅的な人道的結末についての深い懸念」という文言だった部分から”あらゆる”が抜けて、「核兵器の使用による壊滅的な人道的結末についての深い懸念」となっていた。コスタリカ同様前年賛成していたニュージーランドの軍縮大使も

今年の決議案には過去の決議からの根源的な逸脱があり落胆している

として採択を棄権した。”あらゆる”という言葉がないと、核使用を完全に禁じることにならず、核使用を容認するような解釈を生みかねない、というのがその理由である。

 核廃絶決議と核兵器禁止条約最大の差は法的な拘束力の有無である。決議は国際社会の意思を示すものではあるが、賛成した国への法的な拘束力はない。核兵器禁止条約は国家間の法的な合意であり、加盟国は従う義務がある。つまり条約への加盟は、国際的に核兵器の不保持・不使用を宣言するにも等しい。逆に言えば、不参加は核兵器の保持・使用を否定しない姿勢を示すということにもなる。

 核兵器禁止条約の批准国・地域が条約発効の50に達したのに際して、国際NGO・ICAN:兵器廃絶国際キャンペーンのベアトリス フィン事務局長は、

(原爆を投下された)日本の経験を考えると、日本が核兵器を合法のままにしようとしていることに失望している。日本は核兵器がどういうものかをよく知っている。条約を支持しないことで、政府は同じことが再び起きるのを許そうとしている

という見解を示した。

核禁条約、不支持の日本に失望 ICANフィン事務局長 [核といのちを考える]:朝日新聞デジタル

 記事では「日本の経験」について、原爆を投下されたとしか書かれていないが、広島・長崎の原爆投下だけでなく、日本はアメリカがビキニ環礁で行った水爆実験でも被爆した国である(第五福竜丸 - Wikipedia)。また2011年の東日本大震災の際には原発のメルトダウン事故も起こしている(福島第一原子力発電所事故 - Wikipedia)。原爆投下だけでも確かに世界で唯一の経験をしているのが日本だが、それ以外も含め原子力、核兵器、そして放射能の脅威に世界で最も晒されてきた国が日本だ。しかも原発事故からはまだ10年も経っていない。そんな国がなぜ核兵器禁止条約に反対するのか、多くの人は理解し難いだろう。
 しかも日本は「核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」という、非核三原則を国是としているのにも関わらず、核兵器禁止条約に反対するというのも全く解せない。条約加盟は国際的に核兵器の不保持・不使用を宣言するのにも等しく、日本が条約に加盟しない、不参加どころか反対するということは、日本の非核三原則は建前だけの美辞麗句、羊頭狗肉の看板であると宣言しているにも等しい。それが他国・他地域からどのように見えるのかと言えば、日本人は論理的な思考が出来ない、若しくは日本は矛盾を厭わない国ということになるだろう。

 フィン氏は、

日本の人々が参加を強く支持していることは知っている。しかし、条約に加入しないならば選挙で選ばないと声を上げるなど、政府に要求する必要があると思う

とも言っている。確かに自分の周りを見ても、SNSを見ていても核兵器禁止条約に対する現自民党政権の態度に疑問を持っている人は決して少なくなさそうだし、世論調査でも、日本も核禁条約に「参加すべきだ」と答えた人は72%という結果が出ている。

しかし一方で、そんな自民党政権を長らく国民の50%以上が支持するという奇妙な状況にもあった。核兵器禁止条約以外でも、公文書管理に関する複数の問題、桜を見る会問題などに関する説明の合理性など、自民党政権の方針・態度に対して疑問を持っている人が多数派である、という世論調査結果はしばしば見られたが、それでも有権者の半分以上がその政権を支持するという不可解な状況が続いてきた。コロナ対応や検事長の定年延長問題を巡り、前安倍自民党政権の支持率は30%台にまで下がったが、それを踏襲すると宣言して成立した現菅政権になると、何故か再び70%まで支持率が上がったのも、恐らく他国から見れば「日本人って何も考えてないの?」「日本人って矛盾を厭わないの?」と映ったことだろう。というか、そんな疑問すらもう既に持たれないような状況にあるのかもしれない。

 現在の自民党政権を支持するということは、核兵器の否定に反対するのと同じだし、昨日の投稿でも書いたように、収入減に苦しむ非正規雇用労働者らを無視するのも同然だ。また、同性愛や外国人らへの蔑視を積極的に否定しない政府と与党でもあるので、実質的には差別や偏見を黙認・容認するにも等しい。ということを理解しなければ、国際的な日本の評価は今後も下がり続ける。
 選挙に行かず投票を棄権して「私は自民党に投票していないので支持者ではない」と言う人も多い。だが、投票しない行為は多数派への従属であり、現在自民党が与党なのだから、選挙に行かない、投票を棄権するのは実質的には自民党支持と同じだ。前段のような指摘について責任から逃れたいからそんな風に自分を擁護するのだろうが、この場合において無関心は無責任と同義だ。

 トップ画像は、WikiImagesによるPixabayからの画像 を使用した。

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