教えることを怠って何かを安易に禁止したり遠ざけたりするのは、判断力を養う機会を子どもから奪うことでもあり、程度や場合によっては虐待に当たるのではないか? ということを10/19の投稿で書いた。未成年者には充分な判断能力が備わっているとは言えず、保護者などがそれを補助するのは当然だが、大人が判断を押し付けることで子どもが判断する経験をしなれば、子どもの判断力は養われない。
そんな視点で考えれば、親や教員などが強引に押し付けるブラック校則は、苦痛を与えるという直接的な虐待に当たるだけでなく、子どもから判断する機会を奪う精神的な虐待とも言えるだろう。
虐待や暴力というのは、それに該当するか否かは結構曖昧だ。例えば先生が仲の良い生徒の頭をじゃれ合い程度に軽くはたいても、生徒側はそれを暴力や虐待とは捉えずにスキンシップと受けとめる場合もある。だが人間関係がしっかりと出来上がっていない状態ならば、同じ程度に頭をはたいた場合でも、教員に暴力を振るわれたと受け止める生徒だっているだろう。
それは身体的な接触に限らず言葉や振舞いでも同じだ。人間関係ができているなら「バカ」や「アホ」という言葉も暴力にはならないが、適当な人間関係ができていない中で「バカ」や「アホ」と言われてたら、冗談とは受け止められない人もいる。
つまり、いくら大人側がよかれと思って設けたルールでも、場合によっては暴力的にもなりえるし虐待にもなりえる。個人的には制服の着用義務などはまさにその類だと考える。例えば制服には夏服と冬服があり、学校によってはどちらを着用するかが明確に決められていて、夏服期間には冬服の上着を着用してはいけないとか、その逆も校則で決められている場合がある。体操服も同様に、何月以降何月まではジャージを着てはならず、半袖ハーフパンツで授業を受ける事のような決まりがあったりする。つまり、暑さや寒さの感じ方にはそれぞれ個人差があるのに、暑いと感じるか寒いと感じるかを学校や教員に強制されるのだ。これは暑さや寒さへの我慢を強いる身体的虐待の側面があるだけでなく、個人個人の多様性を否定したり、判断する機会を奪う側面もあり、精神的暴力/虐待に当たる恐れも強いと自分は考える。
付け加えると、自分が通った中学には「体育意外の授業は原則として制服で受けること」という決まりがあり、夏でも制服を着用せねばならず、半袖ハーフパンツの体操服で授業を受けることが許されていなかった。しかし教員の中には半袖ハーフパンツで授業をする者、年中いつもジャージで授業をする教員などがいた。勿論体育科の教員が体育の授業をするのにそのような格好なのは理解できるが、「体育意外の授業は原則として制服で受けること」という校則を設けるなら、座学の授業をする場合は教員も同様にフォーマルな服装が徹底されていなければ説得力に欠ける。生徒はダメだが教員はOKというのはとても封建的で理不尽だ。
コロナ危機下で換気の為に窓を開けて授業をしているのに、防寒着を着用して授業を受けることが認められない学校がある、という話が少し前からしばしば話題になっていて、それを西日本新聞が昨日記事化した。
教室で防寒着ダメ?コロナ対策で真冬も窓全開…凍える生徒|【西日本新聞ニュース】
この話を聞いて、なぜ今も日本の教育は軍隊式で封建的なのか、と思わざるをえない。確かに屋内に入る際に防寒着を脱ぐことは一般的なマナーだが、それは屋内が充分に暖房されていることが前提であり、屋外と変わらないような室温の場所ならばその限りではない、というのもごく一般的な認識である。そんな一般的な認識とはかけ離れたことを、ルールだからと杓子定規に求めることの一体何が教育なのだろう。そんなのは教育ではなく単に規則や目上の者への隷属を求めているだけだ。全ての学校がそんな状況ではないのだろうが、そもそも制服の着用を義務としているどんな学校にも少なからずそんな側面があると感じる。
記事には
- 換気はウイルスなどの病原体を減らすのに有効。だが着込むことが許されないと寒さで体力や免疫力が落ち、かえって感染症にかかりやすくなる
- 体の強い弱いは子どもによって異なる。しゃくし定規に防寒着を禁止したり、長時間窓を全開したりするのは間違い
という医者による指摘があり、まさにその通りだとしか言えない。そしてそのような懸念のあることをやるのは、まさに暴力的と言えるし虐待と言っても過言ではないのではないか。
そしてそれは、コロナ危機下での防寒着の取り扱いに限らず、暑い中で生徒にのみ制服着用義務を課したり、暑さ寒さの感じ方は個人個人で違うのに、一律に「これを着ろ」と服装を押し付けることも同様に虐待の側面があるのではないだろうか。