最近は検索すると少年マガジンで連載されていたマンガ/アニメばかりがヒットするが、元来七つの大罪とは人間を罪に導く恐れがある欲望や感情のことで、キリスト教の主にカトリックの教えである(七つの大罪 - Wikipedia)。七つの欲望/感情とは、傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食と、今日のトップ画像にした「怠惰」だ。
説明するまでもないだろうが、怠惰とは、すべきことをせずに怠けることだ。但し七つの大罪における怠惰/Sloth とは、仕事をせずに怠けることを指しているのではなく、定められた安息日を使わず働き続けることを主に想定しており、「本来の自分の姿を見失う」ことを戒めたものだそうで(怠惰 - Wikipedia)、つまりトップ画像のイメージは、厳密には七つの大罪の怠惰とは異なる。ただ用いたイラストは、ジョルジュ バルビエというフランスのイラストレーターが1925年に描いたもので、タイトルは「La paresse (Laziness)」であり、まさに怠惰な様子を描いたものである(ジョルジュ・バルビエ - Wikipedia)。
七つの大罪における怠惰は、定められた安息日も働き続けることを想定した「本来の自分の姿を見失う」ことを指しているが、すべきことをせずに怠けることも「本来の自分の姿を見失う」ことと言えるのではないだろうか。
また怠惰に似た言葉に「堕落」がある。堕落はもともとは仏教やキリスト教の用語のようだが(堕落 - Wikipedia)、現代日本語ではあまり宗教的な背景を考えずに用いられる一般的な表現になっている。堕も落も共に訓読みは”おちる”であり、堕落という言葉はおちるから連想される幾つかの意味を持っている(堕落とは - コトバンク)。その中の一つに「物事がその本来あるべき正しい姿や価値を失うこと」があり、つまり怠惰と同じ意味を持つ言葉である。
興味深いのは、怠惰と堕落は同じ意味をもっているのに、両者のダは似て非なる漢字だという点だ。前述のように堕落のダは”おちる”だが、怠惰のダは”おこたる”であり、2つの漢字は似ているものの微妙にニュアンスが異なっている。ざっくりと言えば、怠惰な状態に陥ることが堕落、ということだ。
なぜ今日の投稿で怠惰/堕落について書いてたのかというと、昨日の投稿でも書いたように、東京地検特捜部が、桜を見る会の前夜祭における有権者の供応買収の事実が明らかなのにもかかわらず、公職選挙法違反と政治資金規正法違反の容疑で告発されていた安倍をいずれも不起訴処分にしたからだ。しかも安倍が「秘書が勝手にやったこと」と言っているのにも関わらず、その秘書も公選法違反については不問で、政治資金収支報告書に必要な記載をしなかった罪で略式起訴されただけなのだ。公選法違反が明らかなのにその罪を不問とする東京地検は怠惰である・堕落している。
この投稿を書いていて、7月にも同じ様な投稿を書いたことを思いだした。
仕事をしていない、鈍い、なまやさしい検察
その投稿では、公選法違反を認めた菅原前経産相、河井前法相とその妻から賄賂を受け取った人達、恒常的に賭け麻雀を行っていた黒川元検事長、IR汚職で賄賂を受け取った5人の議員、森友学園問題で首謀者とされた佐川氏ら10人などがいずれも不起訴になったことを挙げ、検察が仕事をしていない・怠けていると指摘・批判した。
これらのことも踏まえて考えれば、東京地検のみならず
日本の検察は怠惰である、堕落している
と言っても過言ではないだろう。
それならば、この投稿のタイトルは「怠惰な日本人 / 堕落した日本」ではなく「怠惰な日本の検察 / 堕落した検察」ではないのか?と思う人もいるだろう。確かに直接的にはその通りだが、何故検察がこんなことになっているのかと言えば、日本の有権者が検察がそんな状態になるまで政治に無関心だったから、でもあると言えるだろう。
政治に関心を持たない有権者は怠惰であり堕落である。それは自分に対してだけでなく、自分達の子や孫など次世代に対してもだ。無関心によって社会が悪い方向に進むなら、無関心はある種の罪だ。それがキリスト教の七つの大罪の1つである「怠惰の罪」なのではないか。
あるべき姿を逸脱している政治家や検察が怠惰の罪を犯していることは言うまでもないが、権力への監視と牽制を怠たっている有権者もあるべき姿を逸脱していると言えるし、つまり日本の有権者も怠惰の罪を犯している。だからこの投稿のタイトルは「怠惰な日本人 / 堕落した日本」で間違っていない。