虚像とは、レンズや鏡で屈折、反射された光線が実際には像に集まらないが、光線を逆向きに延長すると集まって一種の像を作ることをいう(虚像 - Wikipedia)。転じて、第三者によってつくられた実際とは正反対の姿も指す。科学的な意味合いでの虚像は実像に準じた像なのに対して、後者は実態と正反対の姿を指すのがとても興味深い。一般的には本来の意味の前者よりも、派生した用法の後者のイメージが強いのではないだろうか。
今日のトップ画像には「メディアが創り出す虚像」というコピーを用いた。背景の画像は、幾つかの画像を組み合わせて合成し、夜の街をあたかも昼のように伝えるという虚像のイメージを表現したものだが、最近は高感度撮影に秀でたカメラが10万円台でも手に入るようになっており、実際に夜の街をあたかも昼のような明るさで撮影することも可能になっている。
次の映像は、2014年に発売されたソニーのα7Sというカメラの好感度撮影機能の高さをアピールする映像である。ISO1600-3200あたりが肉眼で見える映像でほぼ真っ暗なのだが、最高感度では日の出直前くらいの明るさで撮影できている。焚火と星空程度の明るさでこれだけ撮影できてしまい、街灯などのある場所ならば更に明るく撮影することが可能だ。現在は後継機のα7S2/α7S3もラインナップされており、α7Sなら中古美品が12万円程度から入手できる。
α7S(A7S) Low Light Demonstration (ISO 1600- 409600) (from Sony Official Video Release) - YouTube
メディアが作りだした虚像として有名なのは、2003年4月、イラク戦争の結果として米海兵隊とイラク人によって、バグダッドにあったサダム フセイン元大統領の像が引き倒される映像だ。当時は次のCNNの映像のように、あかたも大勢の群衆が像の引き倒しに集まって歓喜しているかのような様子が報じられていた。CNNだけでなくBBCの当時の記事もそんな写真を用いている(BBC NEWS In Depth Photo Gallery In pictures Saddam toppled)。
SADDAM STATUE FALLS - YouTube
だが実際にはこのイメージは虚像である。映像ではまるで広場を群衆が埋め尽くしているかのように演出されているが、実際は広場を埋め尽くすほどの人が集まっていたわけではなく、人が集まっている部分をズームアップして撮影している。一部に「イラク人は十数人であとは米兵」という指摘もあるが、それは流石に極端だ。だが広場の半分にも満たない人しか集まっていないことは、この映像の最後の引きのカットからも明白である。
Toppling of Saddam Hussein's statue. - YouTube
このような印象操作が行われたのは、米政府/米軍によるプロパガンダの一環だと言われている。当時バグダッドは陥落していたものの、まだイラク戦争は完全終結はしておらず、戦いを有利に進めるのに精神的な揺さぶりをかける目的とか、米側は米軍が市民に歓迎されていることを強調して戦争を正当化したかった為の印象操作などと言われている。確かにフセイン政権に不満を持つ市民も少なくはなかったようだが、イラク戦争は米側が「イラクが大量破壊兵器を所持している」と主張して始められたが結局それは見当たらなかった(イラク戦争 - Wikipedia)。
2017年の大統領就任式に関しても、フセイン像引き倒しと同じ様な印象操作が行われた。
トランプ氏、就任式の人数めぐり報道を「嘘」と攻撃 比較写真を否定 - BBCニュース
昨日の投稿でも取り上げたナイキのいじめや差別に関するムービーへの反応に関して、メディアでは「批判殺到」「論争が起きている」「大きな反発」などと伝えられているが、果たしてそれは実状に即しているだろうか。
米ナイキの多様性示す広告、日本で大きな反発 なぜ? - BBCニュース
ナイキCMへ批判殺到の背景にある「崇高な日本人」史観 古谷経衡 コラム ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ナイキ動画、海外メディアが続々報じる。人種差別は「議論の習慣なく激しい論争に」 ハフポスト
例えば、この件に触れたモーリー ロバートソンさんの次のツイートだけを見ても、この投稿を書いている時点で429件ものリプライがあり、その大半が当該動画に反対/批判/中傷する内容で、決して議論が起きていない、批判はない、反発もないとは言えない。
2020年の日本で多様性を「生理的に受け付けない」なんて言うのは、もうレガシー。「ホワイトパワー」を叫ぶトランプ支持者と同じ。「選挙に負けてないもん!日本に差別なんてないもん!」歴史のどっち側に立ちたいかだわな。ま、自民党は移民大国へと舵取りしたそうだし。GOTO多様性。Just Do It √
— モーリー・ロバートソン (@gjmorley) December 3, 2020
だがしかし、差別をする自由もあるとか、日本の排他性は文化だとか、議論などとは到底言えない種類の反応も決して少なくなく、というか、その多くは批判というよりも罵詈雑言の類である。それを雑な両論併記的に「議論」だとか「批判」などと表現するのはいかがなものか。実状に即しているとは言い難い。
また「大きな反発」というのも妥当だろうか。自分はこの件に関して世論調査のように広く反応を調べた調査結果というのを目にしていない。確かにツイッター上には、一定数の反発があることは事実だが、あくまでもそれはツイッター上だけの話ではないのか。ツイッター上での話を「日本で大きな反発」と表現するのは果たして妥当なのか。事実に即していると言えるのか。自分にはごく一部の声が大きな人達がネット上で騒いでいるだけで、世論調査規模で反応を調べれば、それは取るに足らない反応でしかないのではないか?と考えている。もしそうであれば、それを「日本で大きな反発」と言えるだろうか。
つまり「批判殺到」も「激しい議論」も「大きな反発」も、メディアが創り出した虚像ではないのか、というのが自分の考えである。もしそうであるならば、それはある意味で、いい加減なことを言っている人達を過大に表現しているとも言える。それはその種の人達を「同じように考えている者は決して少なくない」と付け上がらせることにも繋がってしまうのではないか。