2017年、性犯罪に関する刑法が改正された。改正は1907年の制定以降初めてで、110年ぶりのことだった。改正によって強姦罪は強制性交等罪に名称が変更され、法定刑は3年以上の有期懲役から5年以上に引き上げられ、改正以前、被害者は女性だけを対象としていたが、性別不問となって男性も含められ、また非親告罪となった(強制性交等罪 - Wikipedia)。
親などが、立場の優位性につけこんで18歳未満の子供への性行為などに及んだ場合に処罰される、監護者わいせつ罪や監護者性交等罪なども新たに設けられたが、その110年ぶりの法改正も決して充分なものではなかった。改正後の2019年、性的暴行に関する裁判で、性行為を強いらていたことを認める一方で、被害者の抵抗がなかったとか、未成年の証言は信用がない、加害者が被害者の抵抗を認識していなかった、などの理由による無罪判決が相次いだことで、抗議の声が高まり、現在の法制度の至らなさが指摘されている。
なぜ、性犯罪の刑法改正が必要なの? いま知ってほしいこと、わかりやすく解説 | ハフポスト
英語に Every law has a Loopehole という言い回しがある。「どんな法律にも抜け穴がある」という意味で、法律は不完全な存在であり、完璧な法律などない、ということを言っている。2018年12/4の投稿でも書いたが、民主主義も立憲主義・法治主義も、全て人間がかたちづくるものであり、人間自体が完全な存在ではないので、そんな人間がつくりだすものなのだから、それらも同様に完全ではない。
それは、常に法の改正や新たな法が必要になる状況がそれを物語っている。それは、例えば自動車やバイクにも似ている。自動車やバイクは完成された状態として出荷され消費者に提供されるが、使っている内に、タイヤがすり減って交換しなくてはならないとか、樹脂パーツ等の経年劣化によって液漏れが発生するとか、多かれ少なかれ必ず何かしらの不具合が生じる。つまり、完成された状態に見えても、常にメンテナンスが必要な不完全な状態であり、メンテナンスを怠ればたちまち使い物にならなくなる。民主主義も立憲主義も、そして法治もそれと同様に常にメンテナンスが必要で、絶対的な完成が訪れることはないものだ。
付け加えれば、法の作成・改正に関わる者が、自分が後に都合よく使えるように抜け穴を仕込む場合もある。その最たる例が政治資金規正法などの類だし、企業が政治家や官僚、特に政府関係者を接待したり賄賂を送ったりして、その見返りに政治家らが彼らに都合のよい抜け穴のある法を成立させる、都合のよい法解釈による政策を行う、なんてこともしばしばである。
何にせよ法律とは、法治国家では原則的には遵守するべきものであるものの、しかし法は常に完全ではないので、法に従ってさえいれば常に何も問題はないということにはならない。
東北新社に所属する首相の息子が、複数の総務省幹部を接待し、その見返りに便宜が図られていた問題で、接待を受けていた幹部の一人・谷脇 康彦 総務審議官が、
東北新社以外から違法な接待は受けていない
と国会で述べていたにも関わらず、NTTからも高額な接待を受けていたことが発覚した。
「東北新社以外の違法な接待はない」と答弁していたけど…谷脇総務審議官、NTT社長らとの会食認める:東京新聞 TOKYO Web
この件に限らず、
- 違法な行為はなかった
- 法律上の問題はない
という言い回しで、批判や指摘を受けた行為の正当性を主張する政治家や官僚があまりにも多過ぎる。法律上問題はなくても、だから全く何も問題はないとは限らない。何故なら前述の通り法は常に不完全なものだからだ。さらに、法の条文は人間が言語を用いて書いたものであり、複数の解釈が可能な場合も多く、特に昨今、特に現自民党政権下では、立法趣旨やその法が必要となった背景などを無視した強引な解釈も横行している。
本来は、そのようなことが起きないように、検察や裁判所が牽制するものだが、日本の司法はもうほぼ行政の言いなりだ。そもそも法治自体が完全なものではないのに、更に明らかに法の趣旨を捻じ曲げた解釈が横行すれば、法治は間違いなく蔑ろにされてしまう。結局は法も単なる道具であり、それを使う人次第では用をなさなくなってしまう。
トップ画像は、Vural YavaşによるPixabayからの画像 を加工して使用した。