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民主主義も立憲主義・法治主義も完全な存在ではない


 BuzzFeed Japanは12/3に「台湾で「同性婚が否決」はどこまで本当か?」という記事を掲載した。文字通り、10/24の台湾で統一地方選と同時に行われたLGBTに関連する国民投票で、同性婚を現在の法律で規定する婚姻関係として認めるべきかなどについて、 反対が多数派だったこと等に関する記事だ。この記事を書いたのはゲイとして、性的マイノリティに強い行政書士・ライター・編集者などとして活動している永易 至文さんだ。
 記事の内容は、CNNが「同性婚合法化は住民投票で否決、「アジア初」実現せず 台湾」などと報じるなど、一部メディアが台湾では同性婚が認められないと決まったかのように報じたことに触れ、実際は、台湾司法院(最高裁判所)が2017年5/24に「同性の婚姻が認められていないことを憲法違反」という判断を下したことによって、2019年までに同性の婚姻を認める法改正を行わなければならない事が既に決まっており、現在の婚姻制度に同性婚を含めるか、同性婚に関しては現在の婚姻制度とは別の新制度で認めるかなどの方向付けが国民投票でされたに過ぎない、という事などへの指摘が軸になっている。


 永易さんがこの記事を書いている事、見出しでも掲げられているように、記事の軸が台湾の同性婚やLGBTに関する話題である事などに注目すれば、というか素直に記事を読めば同性婚やLGBTに関する記事という認識に間違いはない。ただ、台湾司法院が示した違憲判断と国民投票の結果に乖離が見られること、その影響について指摘していたり、今回の国民投票が行われるにあたりどのような動きが背景にあったのかまで解説していたり、同性婚を現在の婚姻制度と分離する事に制度上の妥当性があるかどうか(欧米等では制度を分けることも同性愛者への差別という指摘がある)を検討していたり、読み手の受け止め方によってもそれは変わるのだろうが、自分には単なる同性婚・LGBT・性的マイノリティだけの問題にとどまらず、民主主義・立憲主義・法治主義全般に言えることを、同性婚等の問題を例にして論じている記事に思えた。

 支持する政治勢力や受け止め方などによって印象は様々だろうが、長期政権化している現政権と与党は、乱暴な国会運営をしばしば指摘されているし、自分も、特に今国会で検討されている入管難民法改正案に対する姿勢は、 11/28の投稿「自公維の議員たちは、特殊詐欺に騙されるタイプ」で指摘したようにかなり乱暴だと感じている。しかも、法務省はこの法案の検討材料として、外国人技能実習生の失踪者約2900人のうち最低時給以下で働かされていたのは22人と公表していたが、立憲民主党などが調べてみると実際はおよそ1900人もいた事が発覚し、山下法務大臣も「我々としても重く受け止めなければならないと考えております」と発言するなど(TBSニュースの記事)、最早危険と言っても過言ではないレベルだと思う。この手のデータねつ造・改ざんは今回が初めてではなく、自衛隊で政府に不都合な日報の隠蔽事案が複数回に渡って起こったり、裁量労働制拡大法案に関する厚労省でのデータのねつ造・調査票の隠蔽、森友学園問題に関する財務省の公文書の改ざんなど、政府や行政機関で常態化している疑いが強まっていることも、そう感じさせる大きな理由だ。
 現在の政権が成立したのは、台湾で行われた同性婚に関する国民投票同様、国民による国政選挙の結果だ。それは紛れもない事実で勿論一定程度その結果は尊重されなくてはならない。ただ、一部の議員や支持者らは「民意によって選ばれた」という事を黄門様の印籠の如く振りかざすが、果たして民意・民主主義が常に適切な判断を下すかと言えば決してそんなことはない。たとえば、歴史を振り返れば民主的なプロセスによってできた悪法など腐るほど存在する。かつて日本に存在した優生保護法などがその最たる例だ。しかも優生保護法は現代も現代、1996年・たった20年前まで存在していた法律だ。
 悪名高きドイツ・ナチス政権もその成立は民主的な選挙による。決して少なくないドイツ国民が彼らを支持して政権が成立し、しかもその後も多くの国民が何らかの形で、場合によっては積極的でなかったかもしれないがナチス政権に加担した。でなければ、そもそもナチスは実質的なクーデター・ミュンヘン一揆で失敗しているし、政権として成立することはなかっただろうし、その後政権で居続けることも出来なかったはずだ。民主的に選ばれたナチスがその後どのような政策を行ったか、何を起こしてどれ程の人がその犠牲になったかは説明するまでもない。
 流石に現在の安倍政権がナチスのような酷さだと言うつもりはないが、個人的には、自民党と現政権が中国共産党化しているように思えてならない。少し話がずれたが、永易さんも記事の中で、果たして国民投票によって適切な判断が下されるのかという指摘や、そのような指摘はイギリスのEU離脱に関する国民投票の際にもあったことを紹介しており、自分は、それは国民投票に限らず地方議会・知事選挙・国政選挙でも同じように感じる。なので「民意によって選ばれた」ことだけを必要以上に強調する政治家には胡散臭さを感じてしまう。民意で選ばれた議員・知事が後に不正に手を染める、若しくは当選前から不適切な行為に及んでいた、なんてことはしばしば起る。民意による選択が常に正しいのであればそんなことが起こるはずがない。

 「ルールはルールだから守らねばならない」という事を、これも黄門様の印籠かのように論じる人がいる。確かに立憲主義・法治主義の元では、定められた法を尊重して遵守することは重要だ。しかし前段でも触れたように民主的なプロセスによって成立した悪法も山程ある。果たしてそんな法であっても「法律は法律だから守らねばならない」のだろうか。
  ルールはルールだから守らねばならないのではなく、ルールは秩序維持の為に必要だから守らねばならないのであって、秩序維持に反するルールは必要ない、極端に言えば秩序維持に反するルールを守る必要はない
と自分は思っている。勿論、そもそもの悪法や現状にそぐわず悪法化してしまった法律を、正常な手段を用いて改正・廃止等の対応をするのが最も理想的な対応である事は理解している。しかし「ルールはルールだから守らねばならない」という規範意識が過剰になった結果、誰も合理的な必要性を説明出来ないような理不尽な学校のルール・所謂ブラック校則が蔓延し、ブラック校則でもルールに異論を唱えること自体が好ましくないかのような風潮が蔓延することになって社会問題化したのだと考える。現状のルールや法律を守らないことで生まれる不利益と、ルールを妄信し維持する事で生まれる不利益を比較し、後者の不利益が上回るようであれば、ルール・法律を破るという手法での問題提起が絶対的に不適切だとは思えない。この思いの根拠になる例は、11/22の投稿「東京入国管理局のツイートとその姿勢について」でも示している。
 また反対に適当な法が定められても、本来の理念に反した解釈・運用がされたり、社会一般の規範意識がそれに追いつかず、適切に機能しないことはしばしば起る。たとえば、アメリカでは1862年にリンカン大統領によって奴隷解放宣言がなされ、キング牧師らを中心とした公民権運動の結果1964年に公民権法が制定されたが、奴隷解放宣言から約150年、公民権法制定から50年以上経っても未だに人種差別を社会から一掃出来たとは言い難い。これは日本の男女格差などにも同様の事が言える。1972年に勤労婦人福祉法が施行され、1985にこれを男女公用機会均等法へ改正、その後何度かの改正を経て、2015年には新たに女性活躍推進法が定められたが、11/25の投稿でも触れたように、男女の雇用に関する格差・賃金格差などは解消したとはまだまだ到底言えない状況だ。
 つまり、台湾で今後同性婚が現婚姻制度内で認められるとしても、若しくは別の制度として認められるとしても、国民投票でそれに反する民意が示されるようならば、それらの法制度改正による相応の社会的な影響があるかは不透明だと言えそうだ。勿論「法改正したところで全く意味はない」などと言うつもりはない。しかし同性婚を認める法改正は問題解消の第一歩でしかなく、その後の運用こそが重要で、立憲主義・法治主義に基づく社会であっても、適切な理念に基づく法の制定だけで何もかもが解決・解消するわけではない。

 民主主義にしろ立憲主義・法治主義にしろ、そもそも不完全な存在である人間が生み出した制度であって、どれも完全無欠の存在ではない。民主主義が間違った選択をすることはこれまでに何度もあったし、不完全な人間が定める憲法・法律は常に完璧な存在でないことは、これまでの歴史を振り返れば誰の目にも明らかだ。
 何が言いたいのかと言えば、民主主義社会に置いて民意を尊重することや、立憲主義の社会・法治国家において法を遵守・尊重することは確かにとても重要なことだが、民意や法が常に正しいという勘違いをすることはとても危険なことでもある、ということだ。だから民意や法制定が単なる多数決で決められる・決まることは好ましいとは言えない。というか、
歴史を振り返れば妥当ではないことは明らかと断定できる。単なる多数決では確実に多数派ばかりが優遇されることになるし、それはすなわち多様性の否定にすら繋がってしまう。 

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