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協調性という呪いのことば

 あるマンガで、クラスの文化祭準備よりも自分の予定を優先する高校生が描かれていて、「こういうの「協調性」に欠けるって言われるんだよな」と思った。それは確かに協調性に溢れた姿勢ではない。しかし、自分の予定よりもクラスの都合を優先することが優れていて、自分の予定を優先する者はそれよりも劣っている、と言えるだろうか。少なくとも日本では、そう認識される場合がかなり多い。


 例えば、最近は以前よりはマシになったものの、それでもまだ、職場の飲み会に顔を出さない者も「協調性に欠ける」と言われることが多い。そしてそれは欠陥かのように認識されてしまう。協調性とは厳密にはどう定義されるものなのか。

 日本語辞書サイト・コトバンクには「協調性」という項目はなかったが、協調とは - コトバンク にはこうある。

互いに協力し合うこと。特に、利害や立場などの異なるものどうしが協力し合うこと。「労資が協調する」「協調性」

また、協調性 - Wikipedia の冒頭には、

協調性(きょうちょうせい)とは異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質。

とある。
 ということは、クラスの文化祭準備に関して言えば、積極派が消極派に対して積極的な参加を求めることもまた協調性に欠ける行為ではないのか。職場の飲み会に関しても、本来参加を強制されるようなものではないのに、参加しない者を「協調性に欠ける」とあたかも欠陥があるかのように揶揄するのことも、協調性に欠ける行為ではないのか。
 なのに何故か現在の社会では、多数派に従わない少数派に限って「協調性に欠ける」と言われることが殆どだ。それは協調性に欠けるのではなく、同調圧力に抵抗しているだけだろう。


 協調性 - Wikipedia にはこうも書かれている。

「協調性があれば正しい人間」という単純なものではなく、協調性のある人間にも協調性のない人間にも、それぞれ悪人、善人も含まれるとされる。

つまり、協調性のあるなし、高さ低さというのは、人それぞれで間違いなく異なるが、それはあくまでも個人の特性というだけで、必ずしも協調性が高い方が優れているとは言えない、ということだ。なのに何故か現在の日本では、概ね協調性が高い方が優れている、と認識されてしまっている。
 例えば、軍隊や医療機関のような現場においては、協調性は間違いなく必要とされるスキルであり、リーダーシップに対して基本的には従うことが求められて当然だろう。しかしそれでも、例えば戦前の日本軍のように、リーダーシップが間違った方向に発揮されてしまうことも間違いなくあり、それに盲目的妄信的に従うのは果たして協調性だろうか。それは協調ではなく盲従だろう。

 現在の日本社会においても、多数派、立場の強い側に対する盲従することを「協調」と言い換え、盲従しない者を「協調性がない」と表現する場合がかなり多い。だから個人的には、現在の日本社会においては、

 「協調性」とは呪いの言葉

と言っても過言ではないと考えている。


 昨日の投稿など、このブログではもう何度も例に出しているが、新型コロナウイルスの更なる感染拡大が懸念される状況にあり、ほうぼうの医療現場から「もう無理」「オリンピック開催なんてとんでもない」という声が上がっているにも関わらず、オリンピック開催の是非に関する自分の考えを積極的に示さず、IOCや政府や組織委の決定に従うと言っているスポーツ選手、そしてスポンサー企業、積極的にその異様さを書かないメディアなどにあるのは「協調性」ではない。それは協調ではなく立場の強い側への盲従に過ぎない。
 オリンピック開催に反対する行為は、決して協調性に欠ける行為ではなく、立場の強い側へ盲従しない、に過ぎない。いやむしろ、「もう無理」「オリンピック開催なんてとんでもない」という医療現場の声に対する協調である。


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