今や誰もが気軽に写真の修整、画像の合成をやるようになった、ということに、6/19の投稿で触れた後、ソフトウェアで自動的に、誰でも簡単に写真の修整が出来るようになって、専門職でなくても違和感ない写真に仕上げられるようになると、専門職の価値が失われていく、と思った。しかしそれは、ある意味では正しく、別の意味では間違っている。
誰でも簡単に出来るようになるんだから、それまでそれなりのスキルと経験が必要だった技術の価値は、間違いなくそれ以前に比べて低下する。しかし、失われる、は言い過ぎだ。
ソフトウェアで自動的に行えるのは事前に用意されたメニューだけで、それから外れる要望には答えられないし、また自動処理の精度もまだまだ完璧とは言い難く、まだソフトウェアには人間の技術者程柔軟な対応はできない。つまり、処理を自動化するソフトウェアもまた、人間が使いこなすべき道具や技術の一つに過ぎず、現段階では効率化の為の手段であり、専門職の価値が失われるとまでは言い難い。例えるならば、昨今、筆や紙を使わずにコンピューター上で作画する漫画家も増えたが、筆や紙などのアナログな作画では出来なかった便利な自動化機能(範囲選択や切り抜き、やり直しなど)は増えてはいるものの、それによって漫画家の価値が失われはしないのと似ている。
特に芸術の分野では、自動化されて導き出された結果の価値はそれ程高くない。例えば、現在の技術を用いれば、過去の名画家の作風をAIに学習させて、それらしい作品を新たに生み出すことは可能だが、それらの作品が、その名画家本人が描いた作品以上に、もしくは同等の価値を持つことはないだろう。AIに学習させて描かせたことを伏せ、世にまだ出ていない新たに見つかった作品である、ということにすれば、本人が描いた未発表作品として莫大な価値を持つことになるだろう。だが、人間というのは、AIが機械的に描いた作品にはそれ程価値を見出さない。
それは、模倣であるから、という側面もあるだろうが、芸術作品の価値とは、作品そのものだけから見いだされるのではなく、誰が描いたのか、その作品が生まれるにはどんな背景があったのかなど、作品という結果だけではなく、その結果が生まれる過程も含めて判断される。AIに学習させて描かせた作品は、その点で明らかに人間が描いたものに劣る。所謂ストーリーがない。
勿論、AIに学習させることによって、名画家の作風を再現できる技術に価値はあるが、それは芸術作品の価値とはまた別のものである。
例えば、よく話題になるのは、あたかも実物がそこにあるかのように描かれたイラストだ。写実的な表現で言えば、今はかなり高画質で撮影できるカメラを、ある程度誰でも入手できる状況で、写真を使えば、あたかも実物がそこにあるかのようなイラストと同じ様なことがもっと簡単にできる。だが、それを写真でやっても、手書きイラストでそれをやるようには話題にならない。なぜ手書きイラストが話題になるのかと言えば、カメラで撮った写真でそれを手軽に再現するよりも、同じ様なことをアナログでやる人間の技術や手間の方に価値を見出す人の方が多いからだ。カメラを使えば済むのに何を無駄なことをしてるんだ、という価値観の人が多ければ、その種の動画やSNS投稿は話題にならないだろう。
明らかに世界で最も耐久性と信頼性に優れるトヨタ車よりも、信頼性ではトヨタ車に及ばないが、1台1台手作業で組み上げるロールスロイスなどの車のほうが、クルマとして高級とされ、個体の価値ではトヨタ車よりも高いのは、性能のよい大量生産品よりも、手間をかけた特注品の方に人は価値を見出すことを証明している。やはり、手間や結果に至る過程に価値を見出す性質が人間にはある。
世の中結果が全て、という人が間違いなくいる。しかしそれは本当か。
今も昔も、バイクロードレースの世界選手権・旧WGP/現MotoGP には、小排気量/中排気量/大排気量のクラスがある。以前はそれぞれにそのクラスのスペシャリストがいたこともあったが、現在は小排気量がMotoGPシーリズの入門クラス、中排気量が中堅クラス、大排気量が最高峰と、ピラミッド型のクラス分けになっている。更にその下に旧スぺイン選手権で現在は実質的なヨーロッパ選手権であるCEVがあり、さらにその下にレッドブルルーキーズカップや、世界各地のタレントカップがある。
現在、MotoGP最高峰クラスにおける、実質的なヤマハのトップライダーは、弱冠22歳のファビオ クアルタラロだ。現時点で彼は今シーズンの最多勝ライダーであり、ランキングトップの成績を収めている。
2013年にMotoGPへの登竜門であるCEVの小排気量クラスにエントリーしたクアルタラロは、14歳という若さでいきなり年間チャンピオンに輝いた。それはCEVの最年少記録だった。CEVで年間王者になればMotoGPシリーズへステップアップするのがセオリーだが、当時MotoGPには16歳以上という年齢規定があった為、彼は翌年2014年もCEVにエントリーし、2年連続でチャンピオンに輝いた。その翌年2015年もシーズン開幕当初の段階でも彼はまだ15歳だったが、彼の存在が16歳という規定を15歳に引き下げさせた。それ程彼の将来は有望視されていた。
2015年満を持してMotoGPの小排気量クラスにエントリーした彼だったが、CEV時代から一転して成績は振るず、表彰台には上がったが1勝も出来なかった。年間ランキングも10位だった。それは翌年2016年も変わらなかった。年間ランキングは13位で表彰台にすら上がれなかった。しかし2017年、クアルタラロには中排気量クラスのチームから声が掛かり、ステップアップを果たす。しかしステップアップしても成績は振るわず、2017年、表彰台ゼロの年間13位、2018年は1勝2表彰台を獲得するも、年間ランキングは10位止まりだった。兎に角MotoGPシリーズに昇格してからの4年間、クアルタラロの成績は全く振るわなかった。1人のバイクレースファンである自分の目には、CEVでしか通用しなかった並の選手に見えた。
しかし、普通に考えたら最高峰・大排気量クラスに昇格できるような成績ではないのに、それまでヤマハの2番手チームだったテック3がKTMへと鞍替えしたことで、新たなヤマハの2番手チームとして新設されたペトロナスは、2017年の中排気量クラス王者で、2018年に大排気量クラスに昇格したものの、所属チーム撤退で行き場を失っていたフランコ モルビデリと共に、クアルタラロを登用した。彼は2019年から最高峰クラスで走ることになったが、シーズン開幕前、少なくとも自分は、このチームで活躍するのはモルビデリの方だろう、と思っていた。
だがシーズンが始まると、活躍したのはクアルタラロの方だった。勝利はできなかったものの7回も表彰台に立ち、6度予選1位を獲得、年間ランキングも5位で、最高峰クラスのルーキーオブザイヤーだけでなく、非メーカー直系チームのトップ、ベストインディペンデントチームライダーにも、昇格初年度から輝いた。翌2020年もその勢いは変わらず、なんと開幕から2連勝、それを含む計3勝を収めた。ただ好調不調の波が激しく、表彰台はその3回だけ、ヤマハ勢の年間ランキングトップはチームメイトのモルビデリだった。
しかし開幕2連勝のインパクトは大きく、MotoGPではシーズン前半に既に翌シーズンの所属ライダーが検討され始める状況もあって、クアルタラロは2021年はヤマハのファクトリーチーム(メーカー直系の1番手チーム)で走ることになった。そして現在ランキングトップの成績を収めている。
スポーツでは特に、結果が全てと言われがちだが、クアルタラロの例が、結果だけが全てではないことを物語っている。もし結果だけが全てだとしたら、MotoGPの小排気量クラスで好成績を収められなかった彼は、今もまだ同クラスで走っているか、最悪CEVへ出戻っていただろう。クアルタラロは22歳だが、現在小排気量クラスにエントリーしている日本人の中で最年長の鈴木 竜生は23歳だし、同クラスの最年長はイギリス出身のジョン マクフィーで26歳だ。また、MotoGPの小排気量クラスに1度はエントリーしたものの、成績が振るわずにCEVへ出戻る選手も大勢いる。2018-19シーズン、MotoGPの小排気量クラスにエントリーしたものの、成績が振るわずに2020年CEVに出戻った日本人ライダーに真崎 一輝がいるが、2020年CEVで年間9位になったものの、思い描いたような成績が上げられなかったのか、彼は2020年シーズンでのレーサー引退を表明した。
クアルタラロが好成績を収められなかったにも関わらず、中排気量、大排気量クラスへと登用されたのには、勿論代理人等の交渉力などもあるのかもしれないが、もしそうだとしても、彼の走りに将来性がなければ、好成績を収められなかった彼を登用するチームはなかっただろう。つまり、成績という結果だけでなく、結果は上げられなかったものの、各チームがその走り、つまり過程を見ていたから、重視したから、彼は上位クラスへと登用されたんだろう。そしてあの4年間からは想像できなかった、最高峰クラスのトップを走る、という状況に彼はなっている。
確かに結果は何事においても重要だ。決して、結果に大した意味はない、なんて言えない。だが、結果が全て、とは言えないことも間違いない。
否決される内閣不信任案に意味はある? 提出のわけは:朝日新聞デジタル
ロールプレイングゲームや推理小説の、結末を知るだけで満足できる人がどれ程いるだろうか。マンガでも、主人公が紆余曲折を経て最終目的を達成する、最後の敵を倒す、などのストーリーは多いが、それらでも、結末よりも過程・ストーリーの方が重要で、1巻と最終巻だけを読んで満足できる奇特な人はほぼいない。
数学の試験だって、問いに対する回答だけでは評価されない場合が殆どだ。どうやってその回答にたどり着いたのか、その過程を示すことが大抵求められる。論文でも重視されるのは、基本的に結論だけではなく、どうやってその結論に至ったかだ。
今の日本では過程があまりにも軽視されている。過程を説明出来ない政府関係者があまりにも多い。過程を説明出来ない者が言う、結論は間違っていない、という話ほど信用できない者はない。
トップ画像には、マーク マーカー 手 - Pixabayの無料写真 を使用した。