日本の学校教育では何かと協調性なるものが求められ、重要視される為、目立つこと、人とは違うことが、仲間はずれやいじめの原因になることも多い。だが、いざ社会に出ると、人とは違うことは生きていく上での武器になる。他の人と違うこと、他の人には出来ない能力があることはその人の個性であって、とても素晴らしいことだ。
しかし、人とは違うことをするのは常に素晴らしいこととは限らない。皆が左側通行で走っている中で、それに逆らって誰かが一人だけ右側通行を始めたら、交通に混乱が生じ、最悪正面衝突する事故が起きかねない。自動車道路ではそのような行為が明確に禁止されていて、罰則の対象にもなる為、認知能力に問題が低下した人を除けばそんなことをする人は滅多にいないが、混雑した駅などでは、人の流れに逆らって歩く人をしばしば見かける。
しかし、多数派が必ずしも正しいとは限らない。たとえば混雑したエスカレーターでは、片側を歩く人が多発するが、エスカレーターは歩かずに乗車するのが正しい利用の仕方であり、その流れに逆らって立ち止まる人がいても、それは流れに逆らう方が適切だ。このように、人と違うことをする、と一口に言っても、それは必ずしも良いこと/悪いこととは限らず、時と場合によってその評価は変わる。
人とは違うことは、良くも悪くも注目を集めることが多い。その為、人とは違うことを言う/することが目的化してしまって、良し悪しの見境なくそんな言動を重視してしまう人もいる。
たとえば、目立ちたいという承認欲求が高じてしまい、アルバイト先の冷蔵庫に入ってはしゃぐ様子や、コンビニのおでんを指でつつく様子をSNSへ投稿する、などもそれだ。そんなことは殆どの人がやらないが、その類の、人とは違うことをする、は全く素晴らしくない。寧ろ軽蔑される行為だ。
自民党・麻生
太郎などの暴言も同じようなものだ。麻生はしばしば暴言を吐くが、恐らく本人は、人とは違う発想を持っている俺スゴイだろ?とか、他の人が言わないことを言ってやったぜのように思っているんだろう。なぜ多くの人が、思っていたとしてもそのようなことを言わないかと言えば、それは内容が不適切である、ということを理解しているからだ。麻生のように暴言を何度も繰り返す人は、何が適切で何が不適切かを根本的に理解していないんだろう。
SNSや政治家だけでなく、芸能関係者の中にもその種の人達が少なからずいる。個人的に、その象徴的存在が松本
人志であると考えている。最近は話題になることも少なくなったが、一時期、フジテレビのワイドナショーでの松本の発言を、Webメディアなどがしばしば取り上げていた。その多くが少し捻くれたことを言ってやろう、という感に満ちていた。松本はお笑い芸人で、突拍子もないことを言うことで今の地位を築いてきたんだろうが、最早突拍子もないことを言うことが目的化してしまい、良し悪しの見境がなくなってしまった感しかない。
ワイドナショーによく出ていた(今も出ているのかも)古市
憲寿にもその傾向があって、何かにつけて捻くれたことを言う印象が強い。その古市が、安倍自民政権が新型ウイルス対策として昨年1戸につき2枚配布した所謂アベノマスクが、8200万枚も使われず保管され、保管料として年間6億円が支出されているという件について、フジテレビの番組の中で「次のパンデミックのために一定数備蓄しておくのは必要じゃないかなと思う」とコメントしたそうだ。
古市憲寿さん危機管理に余剰布マスク「備蓄は必要」との発言にSNSではアベノマスク批判あふれる:中日スポーツ・東京中日スポーツ
布マスクやウレタンマスクの新型ウイルスの感染を防止する効果は不十分、というのは最早一般常識だし、所謂アベノマスクはそれに加えて虫が混入していたりカビが生えていたりと、衛生面の問題も指摘されていた。そんな産業廃棄物のような、配っても殆ど誰も使わなかったものを、年間6億もかけて備蓄する必要がある? 言葉は悪いが、本物のアホでないとそんなことは言えない。
マスクの選び方は? ウレタンは性能劣る【素材別の比較結果】 | ハフポスト
虫混入、カビ付着…全戸配布用の布マスクでも不良品 政府、公表せず | 毎日新聞
言論の自由が憲法によって保障されているので、他人に損害でも与えない限り、何を言うのも自由なのだが、いい加減なことばかり言っていると信用されなくなるのは当然だ。フジテレビなどのテレビ局は、古市以外にもいい加減なことを平気で言う人物を情報バラエティのコメンテーターに起用している。「共産党はまだ暴力的な革命を党の要綱として廃止していませんから」というデマを選挙直前に撒いた八代という弁護士(9/11の投稿)はその後もその番組に出演しているし、その番組も打ち切りにならず今も続いている。いい加減なことを平気で言う者を起用している番組や放送局が信頼されなくなるのは当然の成り行きだ。
人とは違う捻くれたことを言う、で目に付いた、明日・10/31投票の第49回衆議院選挙について、多くの人が投票を促していることなどに対する、こんなツイートがあった。
やたら「#若者の政治参加」を煽る風潮ってのもどうなのかね…?
— けびいし (@794kbec) October 28, 2021
政治に興味を"持つ"のも"持たない"のも、それこそ【#個人の自由】だし、なんで『政治参加』に関しては、ある種の【国家総動員法】みたいな雰囲気作りをしてまでアジってるのかね…?w #総選挙2021
確かに政治に興味を持つも持たぬもそれは個人の自由だ。しかし、その自由を維持する為には政治に興味を持って、多くの人が政治に参加し、民主制を維持する必要がある。民主制が維持できなければ、政治に興味を持ち参加する自由は失われる。だから日本国憲法12条では、
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
と規定している。
政治参加を”煽る”という表現自体がかなり異様だし、国家総動員法こそその自由を奪うものであり、ハッキリ言って非論理的だ。自由自由と言う割に、自由に伴う責任に関する認識が著しく欠如している。よく考えもせずに捻くれたことを言っている感しかない。
このツイートが如何におかしいか、浅はかか、それは安田 菜津紀の次のツイートが端的に示している。
あるとき、「日本には表現の自由、投票の自由があるけれど、特に若い人たちの投票率が低い」と話したとき、シリアの友人が絶句してしまい、それ以上、何も言えなかったのを覚えている。その「自由」を得るために10年以上、あまりに多くの人々が命を奪われてきたから。https://t.co/2VQ0PbSdSO
— 安田菜津紀 Dialogue for People (@NatsukiYasuda) October 24, 2021
トップ画像には、イラストストック「時短だ」 – 時短に役立つ素材サイト の素材を使用した。