ミニマリストが話題になったのはいつ頃だっただろうか。ミニマリストとは、本当に必要な物だけを持つことでかえって豊かに生きられるというライフスタイルのことで、コトバンクによれば「物を持たずに暮らす人の意味では、2010年前後から海外で使われるようになり、その後日本でも広まったと見られる」とある。
このコトバンクの解説は2015年に書かれたものなので、大きく話題になったのはその頃だろう。2015年に限定してミニマリストとGoogle検索したところ、まず最初に「モノを極限まで減らした暮らしは本当に快適!? - 「ミニマリスト」佐々木典士さんに聞く | マイナビニュース」という記事がヒットした。この記事は、紹介されている男性の著書「ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ -」の紹介でもあるから、2015年にそのような本が出版されたということは、コトバンクでの解説通り、その頃には日本で話題になり始めて数年が経過していたということだろう。
この画像は、記事で紹介されているミニマリスト男性の部屋だ。この記事が書かれた頃には同じ様な部屋の写真、若しくは、まるで賃貸情報サイトの部屋写真のような、もっと何もない部屋の写真を使っていた記事もあったと記憶している。中にはトップ画像のような畳敷きの部屋もあったりして(大抵オシャレな感じを演出していたのでもっと明るい雰囲気ではあったが)、当時、剥き出しの便器と洗面台があったら拘置所の独居と変わらないな、と思った。
自分も一時期、部屋を少しでも広く使おうとして、いろいろとため込んでいたモノを一気に手放したことがある。誰でも引っ越しなどを機に持ち物を整理することがあるだろう。でも、ミニマリストのような部屋になるまでモノを手放す人は稀なのではないか。少なくとも自分の周りにはそこまで極端な人はいなかった。
00年代頃からしばしばゴミ屋敷が社会問題として取り上げられてきた。あれは捨てられないの極端な例なんだろうが、ミニマリストは逆に捨てすぎる極端な例なんじゃないだろうか。捨てる、という表現が妥当かどうかは定かでないが、モノを置かなすぎる、ことには違いない。どこからが”過ぎる”なのか、それは人によって評価や認識が変わるだろうが。
部屋を少しでも広く使おうとして、いろいろとため込んでいたモノを一気に手放した際、それから数年は満足だった。即座に必要ないものは手放し、スペースを有効活用した方が合理的だとすら思っていた。必要になったらまた買えばいいだけだ、処分するのではなくリサイクルショップを倉庫代わりに使うようなものだ、と思っていた。
自分には間違いなくコレクター気質があって、雑誌なんかも結構ため込む方だ。ため込んでいた時は「いつか見返すことがある」と思っていたし、電子書籍が一般化する前の雑誌を、スキャナーで所謂を自炊して、デジタルデータに変換してから処分しようなんても思っていた。しかし見返すことはほとんどなかったし、自炊も結構な手間でそのほとんどは手付かずだった。それで、それを機に手元にあった古雑誌は一気にブックオフへ売り払ってしまった。
レコードも6畳間の壁一面がいっぱいになるくらいあったが、そこから選別して1/3以下に減らした。棚が部屋に占めるフットプリントは変らなかったが、背の高い棚を無くすことが出来たので、圧迫感がなくなり、部屋が広くなったと感じられる効果は大きかった。
他にも、あまり着ていなかった服、使っていなかった古いゲーム機、結構な量が溜まっていたケーブル類なども処分した。当初はそれらを処分したことに満足していたが、数年経って、確かアレがあったはず、と探しても出てこなかったり、売ってしまったりしているケースが結構起き始めた。中には買い戻すことが出来たものもあるが、一部のレコード、そして雑誌のほとんどは買い戻すことが出来ない状態だった。果たして、部屋の決して少なくないスペースを占めていたが、それまで殆ど使うことがなかったのに所持していたものは、本当にムダだったんだろうか。
自動車やバイクのように、都会であれば置いておくだけでも場初代にかなりのコストがかかり、しかもそれ自体の維持にもメンテナンスの手間とコストがかかるようなものは、たとえ手放したらもう2度と手に入らないとしても、手放なさければならない場面もあるだろうが、自宅になんとか置いておける程度のコレクションは、使わなくても、置いておいたらムダになる、ということはないのではないだろうか。
そんなことを、いとう せいこうのこれから続く一連のツイ―トを見て考えていた。
本の前にCDをぐっと減らそうと思って棚の前に小一時間いたが、減らせたのは二枚だけで吹き出してしまった。サブスクにあるものは持たないようにと覚悟してなお。そこからなくすとアーティストごと忘れてしまうんじゃないかと恐れて。でもインデックスのためだけに大量に置いてあることが妥当なのか。
— いとうせいこう (@seikoito) October 6, 2021
彼は「インデックスのためだけに大量に置いてあることが妥当なのか」と言っているが、そもそもコレクションとはそのような類のものだろうし、限りある場所や維持コストとの兼ね合いもあるが、サブスクリプションは、たとえば電気グルーヴのように、サービス運営の都合でいきなり配信停止される恐れもあり、決して過信してはいけない。
ムダとは一体何を指すんだろう。コトバンクには、役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。無益。とある。でも”役に立たない”も”甲斐がない”も、決して即時的判断できるものばかりでない。ここまでに書いた例のように、殆どが無益と判断されたものの中に有益なものが混じっていることもある。ムダか否かの判断は一筋縄ではいかない。
数字が正しい情報か不明だが、ある東京の行政区が広範なPCR検査を実施し陽性者が「27人」費用が「5億円」と非難する者らがいる。少なくてよかったじゃないか。世田谷区民は安心だ。国が全面的にやることだよ。都内の陽性1,000人以上って毎日聞かされるあのちびちび検査の不安な日々はなんだったのだ。
— 宮沢章夫(笑ってもピンチ) (@aki_u_ench) October 6, 2021
宮沢 章夫がこんなツイートをしていた。何万も検査してたった数人しか陽性者が見つからないなら、広範なPCR検査をするのにかかるコストは無駄になる、という話は、日本では新型コロナウイルスの感染拡大当初から、行政や積極支持者によって声高に叫ばれてきた。そして未だにそれを言っている人達がいる。
1/9の投稿でもそのおかしさを指摘した。現在は以前と違って、乗用車に関しては毎回運行前点検をする必要はない。然るべき時に行うことになっている。しかし公共性が高く、その社会的影響が大きいことから、トラックやバス・タクシーなどの事業用車両に関しては、1日1回の運行前点検が今も義務づけられている。毎日の運行前点検で異常が見つかる率は決して高くない。だから運行前点検はムダだということになるか。いやならない。異常が見つからなくても、毎回運行前に検査することで安全が保たれ、その利用者だけでなく社会全般が安心して道路を利用できる。
広範なPCR検査はムダと言っている人の多くは、毎年のように防衛費を増額する政府の支持者だが、彼らはそれをどう思っているんだろうか。自衛隊は、勿論平時にだって役割を担っているが、日本は戦後76年間一度も侵略にさらされておらず、もしもの為の備えでしかない。災害の際に出動することはあるが、合理性を求めるのなら、その分の自衛隊予算を削って、必要な時だけ民間に災害出動の役割を委託してもよさそうだ。なぜそのような仕組みしないのか、それは”備え”であって、自衛隊が平時に、大雑把に言って何もしないのを、ムダとは捉えないからだろう。自衛隊を置いておくことで、いざという時の、有事の安全を確保し、平時の安心を確保している、という認識であるからだろう。
PCR検査だってそれにかかるコストは、感染が見つからなくても、安全を確認する為のコストだし、安全が確認できなければ安心は得られない。安全と安心が確保できなければ、経済だって積極的には回っていかない。PCR検査だけでなく、新設図書館の書架の余裕や、有事を見越した平時に余裕のある病床数、公共水道事業などをムダだと捉える人、ムダだと言う人は、考えが偏狭だと言うよりほかない。選択と集中という、日本の学術研究に関する考え方が如何に非合理的か、も同じ様な話だ。