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ズレた話

 この江ノ電の写真は、ぼんやり見ていると何も違和感を感じないかもしれない。しかしこれは合成写真であり、明らかにおかしいところがある。と言われたら大抵の人は何がおかしいかにすぐ気づけるだろう。

 本来電車はレールの上を走るものだが、この写真では電車が線路と並走する道路の上を走っている。写っているのが、市電のように道路上の軌道を走ることもある江ノ電であり、並走している道路が、複線区間であれば線路があるべき位置にあることなどが、この写真が一見まともに見えてしまう理由かもしれない。
 つまり今日のトップ画像は、明らかに電車の位置がずれているのに、ぼんやりと眺めるだけではそのズレに気づかない、気づきにくい、ということを狙った合成写真だ。


 この画像と同じ様に、確実に中傷の類なのに、一見妥当な批判に見えてしまう言説、というのもある。そもそも、批判と中傷の区別がつかないという人も結構多い。やっているのは中傷なのに、それを批判だと言い張る行為もしばしば見かける。中傷している本人が批判だと言い張ることで、まともな批判にみえてしまうケースもある。
 批判と中傷の違いは何か。批判は元来批評と同義だが、現在は主に否定的な批評の場合に用いられる表現になっている。中傷も否定的な言説という意味では批判と同じだが、中傷と批判の大きな違いは、合理的な根拠に基づいているかどうかだ。合理的な根拠に基づいた否定的な批評や言説が批判であり、合理的根拠に基づかない、ありもしないことを言いふらすなどする行為が中傷だ。

 但し、誰もが前提とするようなことが根拠になる場合、根拠を明示しなくてもそれは中傷にはならない。なんの前提もなく「1+1=3だ」と言い張っている人に対して、おかしなことを言っている、と言うことは中傷でなく批判だ。おかしなことを言っていると言われた「1+1=3だ」と言い張っている人が、「1+1=2である根拠は?根拠も示さずに、おかしなことを言っている、と言うのは批判でなく中傷だ」などと言い出すかもしれないが、そもそも1+1=2は一般常識の範疇であり、それが自体が、おかしなことを言っている、と言える根拠だ。一般的な常識を根拠も示さずに否定し「1+1=3」だと言い張っているんだから、それだけで、おかしい、と言われても仕方がない。


 このようにツイートしたところ、次の引用リプライがあった。結論から言うと、このツイートの話は全くズレている。

 普段はこの手の中傷には一切反応せずにスルーしてしまう。合理的な根拠を伴わない否定的な言説は批判でなく中傷である、という感覚でいると、浅はかでかわいそうだな、という気持ちになれるが、それでもストレスが一切ないわけではない。だが、この種の人にそれをぶつけたところで、合理的・建設的なやりとりは不可能だろうから、こうやってたまに何がおかしいのかを整理してストレス軽減したくなる。

 まず、自分のツイートに関して、それが絶対的な考えだ、とは思っていないので、賛同しない人がいても勿論構わない。しかしこれを見て「『自分の考えが正しい 他のやつはバカ』っていう根本的な思考なんだろうなぁ…」というのは飛躍が過ぎる。自分のツイートした考えをどう受け止めようがそれは個人の自由だが、どこにもそんなことは書いていないのに、こちらが「自分の考えが正しい 他のやつはバカ」と思っている、と明確な根拠もなく言うことは、もうそれだけで中傷でしかない。
 少し言い方を変えると、全くの他人に対して、根拠もなく『自分の考えが正しい 他のやつはバカ』っていう根本的な思考なんだろうなぁ…」と言えるということは、そう言っている人こそが「自分の考えが正しい 他のやつはバカ」と思っている、という自己紹介ではないだろうか。他人を中傷しバカにする自分の行為を棚に上げて、そんなことをSNSへ投稿してしまう人は可哀想だ。

 また、「この論理でいけば、日本人の大多数が 非人道的行為してることになるでしょ?」もおかしい。もし大多数がやっているから非人道的行為とは言えない、と考えていて、それに基づいてこんなことを言っているのだとしたら、それは明らかにに間違っている。
 たとえば、学級内におけるいじめで考えると「大多数がやっているから非人道的行為とは言えない」という話がおかしいことは明らかだ。学級内におけるいじめは大抵、数名の主犯とそれをサポートする共犯者、そしてその他の傍観者によって、1-3人程度の少数を標的にして行われる。主体的にいじめを行う数名とそれに加担する共犯者が非人道的行為を行うことは否定のしようがない。ではいじめが行われていることを見て見ぬふりする行為はどうか。自分にはそれも非人道的行為に見える。何故なら、傍観は消極的ないじめへの加担だからだ。非人道的行為をやるのは大抵多数派だ。
 ナチのユダヤ人弾圧も多数派による少数派への非人道的行為だった。大半のドイツ人はユダヤ人を弾圧したナチを支持した。日本における在任コリアンや外国人に対する差別もそうだ。在任コリアンや外国人差別の撲滅に消極的な政党がずっと与党であり続けている。そして11/1の投稿でも指摘したように、先日の衆院選でも、同性婚・選択的別姓を認めない党、つまり少数派の権利を否定する非人道的な姿勢の政党が再び与党に選ばれた。だから自分は、

「日本人の過半数は同性婚・選択的別姓を認めない党を支持する・容認するレイシスト・準レイシスト」だと落胆せざるをえない

と書いた。

 「ほんとエコーチャンバーって怖いな…( ´Д`) 」とも言っているが、エコーチェンバーに陥っているのはこの人の方だ。現政府はオリンピックの開催は問題なかったと言っているが、その期間中にこれまでで最悪の感染爆発と、それに伴う医療崩壊が生じたのは紛れもない事実だ。政府はその原因はオリンピックではない、という姿勢だが、では何が原因だったのか、という根拠は全く示されていない。そして報道機関も積極的にそう指摘せずに、オリンピックとパラリンピックが終わった途端に与党の総裁選一色に切り替わった。そんな異様な日本の状況自体がそもそもエコーチェンバーの状態であり、そこに身を置いているから医療崩壊を招いた政治家や政党を支持出来てしまうんだろう。


 このツイートは直接的な攻撃性の高い表現は使っていないので、一見中傷ではなく批判であるかのように見えるかもしれない。しかし、このように自らのことを全く棚に上げて、根拠の伴わない否定をすることは、明らかに批判でなく中傷でしかない。このような一方的で断定的な評価する行為のことをレッテル貼りと呼ぶ。別の言い方をすれば、こいつはおかしなことを言っている、という印象操作とも言えるだろう。

 ツイッターは特に、投稿できる文字数に限りがあることもあって、合理的な根拠も示さずに他人を否定する投稿が少なくない。このようなことをやる人はどこでもやるのだろうが、文字数制限の為に省いたとか、あくまでも個人的つぶやき、独り言だと言い訳しやすいのがツイッターだ。
 ツイッターは、誹謗中傷を減らしたいなら、せめて投稿できる文字数を倍にしてみたらどうだろうか。


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