日本人には思いやりがあるのか、ということについては昨日の投稿でも書いたばかりだ。日本人には他人を嘲笑したい人が決して少なくないので、思いやりがあるとは言えないのではないか、と昨日の投稿では書いた。昨日は第49回衆議院選挙の投開票日だったが、その結果を見ても、やはり日本人には思いやりがない、と再確認させられた。
日本人には思いやりがない、と書くと、日本人が思いやりを発揮する例を示して「レッテルを貼るな」と言ってくる人がいるものだが、これはあくまでも傾向の話であって、全ての人に絶対的に思いやりがない、という意味ではない。
これがレッテル貼りであるならば、日本人には思いやりがある、という話に対しても同様に「レッテル貼りをするな」と指摘しなくてはならない。でも、そのような指摘はあまり見かけない。なぜなら、それは多くの人が、日本人にも思いやりのない人はいるが、それはあくまでも傾向の話をしている、という認識を前提にその話に触れているからだ。ならば逆も然りであり、日本人には思いやりがない、もレッテル貼りではなく、傾向の話と認識すべきだ。
勿論、なんの根拠もなく、日本人には思いやりがない、とすれば、それはレッテル貼りと言われても仕方がないのだが、日本人には思いやりがないと言える理由についてこれから書いていく。
日本人には思いやりがない、そう言える理由は、10/27の投稿で書いたこれに尽きる。
10/31投開票の49回衆議院で自民党が再び与党になったら、「日本人の過半数は同性婚・選択的別姓を認めない党を支持する・容認するレイシスト・準レイシスト」だと落胆せざるをえない
レイシストだなんて大袈裟だと思う人もいるかもしれない。しかし、万人の法の下の平等を憲法で定めているにもかかわらず、そしてそんな憲法がなかったとしても、異性愛者には認められている婚姻する権利を同性愛者には認めないとか、婚姻時にどちらかが一方の姓に強制的に改めてさせられる、というか主に女性が男性の姓に改めさせられる、という状況を容認する、ということは、平等の観点に著しく欠けている。それは同性愛者や女性の権利を蔑ろにすることであり、率直に言って、人種による差別や、民族性による差別と大差のない行為だ。意図的か否かにかかわらず、差別をやっている人のこと、加担する人のことをレイシストと呼ぶのはおかしいことか。決してそんなことはない。
たとえレイシストという表現が大袈裟だとしても、同性愛者や女性が権利を制限されているのに、それを変えることを拒む政党を支持すること、その状況を変えようとしないことは、少なくとも、思いやりに欠ける、思いやりがない、と言えるだろう。
昨日の選挙の結果、同性婚や選択的別姓に後ろ向き、というか実質的に拒み続けている自民党が、議席を減らしはしたものの議席の単独過半数を維持した。また、投票率は戦後3番目に低い55.93%だった。
【衆院選詳報】自民は261議席、甘利幹事長は辞意 立民は96議席、維新は躍進の41議席:東京新聞 TOKYO Web
つまり、投票した日本の有権者の多くが、同性愛者や女性が権利を制限されているのに、それを変えることを拒む政党を支持し、有権者の約半分が投票せずにその状況を変えようとしなかった。日本の有権者の多くが同性愛者や女性が権利を制限されていることについて、他人事で感知しなかった、ということであり、少なくとも、蔑ろにされている人がいるのに放置した、と言える状況なのだから、日本人には思いやりがない、と言えるはずだ。
10/27の投稿のタイトルは「人権軽視の国でいいかどうか」だったが、日本人は人権軽視国であることを選んだ。日本にも外国人に対する差別はあるし、主に在日コリアンに対する、民族差別も根強く残っている。しかし日本最大の差別は、同性愛者や女性に対する差別、つまり性差別である。
差別の問題は、そのコミュニティに属する人すべての問題で、日本というマクロの視点で見れば、日本人全員に人種民族差別の問題に対する責任がある。だが、町や集落などミクロの単位で見れば、自分の身近に外国人がいない人、在日コリアンがいない人はいるかもしれない。しかし、自分の周りに女性が一切いない人、なんて絶対にいない。同性愛者だって、日本人口における割合は1.6%から8.9%と言われている。見た目に分かりにくいだけで、どんなに交友関係が狭くても近くに1人はいるであろう割合だ。
つまり、誰にとっても日本における差別の問題は確実に他人事ではないのだ。
日本人は思いやりがあって、困っている人には手を差し伸べる? いいや、全くそうとは言えない。それは選挙結果が明確に示している。権利を蔑ろにされている人がいても、それをおかしいと思わない、おかしいと思っても変えようとしない。それが大半の日本人である。日本人には思いやりがない。