スキップしてメイン コンテンツに移動
 

時代に合っていないのは、憲法か、改憲派か

 10/31に行われた衆院選にて、維新が議席を増やしたことで、改憲勢力が勢いづいている。12/16の投稿でも書いたが、来夏7月に行われる予定の参院選と同時に改憲国民投票を、なんて言い出す者までいる始末だ。来年の事を言えば鬼が笑う、と言うが、何をどう変えるか、が決まる前から、国民投票のスケジュールを決めようだなんて、鬼どころか閻魔様も笑うのではないだろうか。



 改憲派は、時代に合わない憲法は変えなくてはならない、と言う。たとえば、当時首相だった安倍は2020年1月に、

時代にそぐわない部分は改正を行っていくべきではないか。その最たるものが憲法9条だ

と言っている。9条は時代に合わないから憲法改正が必要だ、と言っているのである。

 しかし、果たしてそれは本当か。日本国憲法9条は、1928年のパリ不戦条約や1945年の国連憲章などの国際法規を前提にしてつくられたもので、戦争放棄も交戦権否認も、決して日本だけが重視しているわけではなく、現在の国際的な共通認識でしかない。戦力の不保持に関しては、自衛隊が戦力に当たるか否か、という論点があるし、違憲論があるのは確かだ。だが、自衛隊はあくまでも自衛権行使の為の存在、という名目で長い間存続しており、違憲論が盛り上がって存続が危ぶまれているという事実もない。

 果たしてこれで、9条は時代に合わない、と言えるのか。自分には、戦力保持、つまり軍備増強・海外派兵・海外での戦闘行為を正当化したいだけ、としか思えない。


 一方で、改憲派最大勢力である自民党は、現在先進国で唯一日本だけが認めていない、選択的別姓や同性婚について、伝統的価値観に合わない、などの理由でその議論すら消極的である。別姓制度については、国連からも是正勧告を受けているのに。
 また、日本は世界でもかなり男女同権で遅れており、国会議員の女性比率が著しく低いのにもかかわらず、自民党は候補者男女均等法を無視し続けている。


 果たして、時代に合っていないのは、憲法なのか、改憲派なのか、それは誰の目にも明らかだ。


このブログの人気の投稿

マンガの中より酷い現実

 ヤングマガジンは、世界的にも人気が高く、2000年代以降確立したドリフト文化の形成に大きく寄与した頭文字Dや、湾岸ミッドナイト、シャコタンブギなど、自動車をテーマにしたマンガを多く輩出してきた。2017年からは、頭文字Dの続編とも言うべき作品・MFゴーストを連載している( MFゴースト - Wikipedia )。

話が違うじゃないか

 西麻布に Space Lab Yellow というナイトクラブがあった。 一昨日の投稿 でも触れたように、日本のダンスミュージックシーン、特にテクノやハウス界隈では、間違いなく最も重要なクラブの一つである。自分が初めて遊びに行ったクラブもこのイエローで、多分六本木/西麻布界隈に足を踏み入れたのもそれが初めてだったと思う。

同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになる

 攻殻機動隊、特に押井 守監督の映画2本が好きで、これまでにも何度かこのブログでは台詞などを引用したり紹介したりしている( 攻殻機動隊 - 独見と偏談 )。今日触れるのはトップ画像の通り、「 戦闘単位としてどんなに優秀でも同じ規格品で構成されたシステムはどこかに致命的な欠陥を持つことになるわ。組織も人も特殊化の果てにあるものは緩やかな死 」という台詞だ。

フランス人権宣言から230年、未だに続く搾取

 これは「 Karikatur Das Verhältnis Arbeiter Unternehmer 」、1896年ドイツの、 資本家が労働者を搾取する様子を描いた風刺画 である。労働者から搾り取った金を貯める容器には、Sammel becken des Kapitalismus / 資本主義の収集用盆 と書かれている。1700年代後半に英国で産業革命が起こり、それ以降労働者は低賃金/長時間労働を強いられることになる。1890年代は8時間労働制を求める動きが欧米で活発だった頃だ。因みに日本で初めて8時間労働制が導入されたのは1919年のことである( 八時間労働制 - Wikipedia )。

馬鹿に鋏は持たせるな

 日本語には「馬鹿と鋏は使いよう」という慣用表現がある。 その意味は、  切れない鋏でも、使い方によっては切れるように、愚かな者でも、仕事の与え方によっては役に立つ( コトバンク/大辞林 ) で、言い換えれば、能力のある人は、一見利用価値がないと切り捨てた方が良さそうなものや人でも上手く使いこなす、のようなニュアンスだ。「馬鹿と鋏は使いよう」ほど流通している表現ではないが、似たような慣用表現に「 馬鹿に鋏は持たせるな 」がある。これは「気違いに刃物」( コトバンク/大辞林 :非常に危険なことのたとえ)と同義なのだが、昨今「気違い」は差別表現に当たると指摘されることが多く、それを避ける為に「馬鹿と鋏は使いよう」をもじって使われ始めたのではないか?、と個人的に想像している。あくまで個人的な推測であって、その発祥等の詳細は分からない。