今でこそ、オタク、という言葉は、決してネガティブな意味でのみ使われるようなものではないが、少なくとも2000年以前は、オタクという言葉は概ねネガティブなニュアンスで用いられ、そう呼ばれることを嫌がる人は決して少なくなかった。
おたく、で辞書を引くと「ある事に過度に熱中し、詳しい知識をもっていること。また、そのような人」という解説がある。つまり、マニアやフリークと同様の意味合いがオタクという言葉にもある。しかし、アニメやマンガ、ゲームのマニアのことは、アニメオタク、マンガフリーク、ゲームマニアなどとも呼ぶが、野球やサッカー、将棋などのマニアのことは、野球オタクとかサッカーオタクとか将棋オタクとは言わない。一部ではそんな表現が用いられことはあるかもしれないが、それは局地的な用法であって決して一般的でない。
つまり、オタクとは、主に所謂サブカル(サブカルチャーの略だが、純粋な意味でのサブカルチャーとは異なり、マンガやアニメやゲームなどのオタク系趣味を指す)のマニアやフリークを指す場合に用いられる。
9/17の投稿でも触れたように、オタクという言葉は蔑称として生まれた経緯がある。だからその発祥からおよそ20年近く、つまり2000年前後までは、明らかにネガティブな意味合いが強かった。また、オタクという言葉は、そもそもが純粋なマニアやフリークの意味で生まれたのではなく、アニメやマンガやゲーム、美少女趣味などのマニアを指す言葉として生まれたものであり、だから野球やサッカーや将棋などのメジャーな趣味、所謂メインカルチャーのマニアには用いられてこなかったんだろう。
冒頭でも書いたように、未だにネガティブな意味も勿論残っているものの、2000年以降オタクという言葉から徐々にネガティブな意味が薄れており、現在では純粋にマニアやフリークの代用として用いられるケースも少なくなくなった。たとえば、プロ野球の阪神タイガースには熱狂的なファンが多いが、阪神オタクのような言い方をすることも、決して多くはないがある。しかし、2010年代中盤頃から広島カープの女性ファンがカープ女子と呼ばれ始めた。だがカープ女子を広島オタクとは基本的に呼ばない。
熱狂的な男性阪神ファンを阪神オタクと呼び、カープ女子は広島オタクと呼ばないのはなぜか。それは、カープ女子にはゆるフワなイメージがあって、マニアやフリークとは言えないので同様にオタクとも呼び難いという見方もできるだろう。しかし、たとえば萌え系アニメのファンであれば、ゆるフワで知識がそれ程なくてもオタクと呼ぶことが多いにある。
個人的には、やはりオタクには未だにネガティブな意味合いがあって、だからカープ女子のようなキラキラしたイメージのある人達のことはオタクとは呼ばないのだろう、と考えている。
このようなオタクとマニア・フリークの使い分けに関する指摘は、少なくとも1990年代からある。それをなぜこの投稿で書いたのか、と言えば、こんなツイートを見て、オタクと呼ぶかどうかととても似ていると思ったからだ。
「モンスター」は「ペアレント」や「ペイシェント」にはつくが,「ティーチャー」「ドクター」にはつかない。ここにすでに陰謀がある。
— WADA_version3 (@freeze210929) December 26, 2021
この場合のペアレントは保護者、ペイシェントは患者を意味し、モンスターペアレントやモンスターペイシェントとは、学校・教員/病院・医師・看護師に対して、言い掛かり、理不尽な要求、苦情、文句、非難などを繰り返す人を意味する。だが、確かに言われて見れば、いじめなどに関して到底納得できない対応や主張を繰り返す学校・教育委員会・教員も結構いるし、生徒にわいせつ行為を働く教員も少なくない。病院や医師などにも同じような人達がいる。だがそんな存在をモンスターティーチャーやモンスタードクターとは言わない。
果たして陰謀があると言えるかは分からないが、教員や医師は基本的に正しい、という固定観念がそこに作用し、おかしいなことをする/言うのは主に保護者や生徒、患者やその家族であり、教員や医師が間違うはずはない、という前提の下、モンスターペアレントやモンスターペイシェントという表現が用いられている、という感は否めない。
オタクという言葉を無頓着に用いたり、モンスターペアレントやモンスターペイシェントという言葉を用いること自体はそれだけで即座に不適当とは言えないが、それらの言葉の背景に偏見があることも少なくない、とは言えそうだ。場合によっては、その偏見が看過できない程度である場合もある。
野党は○○という揶揄の背景やそれに賛同する人達にも、与党は正義で間違わない、野党はそれに反抗する人たち、のような、それらと似た偏見・固定観念が存在しているケースが多い。
やはり、誰かが何か言葉を発する時、その表現をどんな場合に使っていて、どんな場合には使っていないか、何に言及したかだけでなく、何に言及していないか、ということ、そのバランスを考慮するのはとても重要だ。