仕事や責任は下に押し付けるのに、おいしいところは自分が持っていき、自分だけの手柄にしてしまう上司。不運なことにそんな人の下で働くことになってしまった、そんな経験がある人は結構多いのではないだろうか。
仕事や責任を部下に押し付ける、それだけでもそんな人の下で働くのは嫌なものだが、更にその仕事の手間や責任は負わず、成果だけを自分のものにしてしまう上司なんてのは最悪である。自分も過去にそんな人の下で働いた経験がある。
以前働いていた会社で、ある時上司に「入札について調べておいて」と言われた。とある自治体の競争入札に参加する準備をしろと言うのだ。勿論それだけに専念しろというわけではなく、それまでにやっていた業務も並行してやりながら。新規参入者向けの説明会に行ったり、必要な書類を調べて揃え提出したり、電子入札システムに必要な機器を準備して操作を覚えたり。行政のシステムなんてのは旧態依然のものが多く、民間企業が一般人向けに提供しているシステムのような親切設計とは程遠く、操作のノウハウを得るのにも相応の手間がかかった。
そんな手間と時間を割いて競争入札参加の準備を整えると、今度は自治体の競争入札告示をチェックして、参加できそうなものがあれば教えろ、という業務が課された。で、参加できそうなものがあれば報告して、上司が提示した金額で入札に参加する、つまり入札の事務仕事の全てが自分に課されたのである。
その時の勤め先が参加できそうな案件は大抵数十万単位の案件で、場合によっては数百万の仕事もあった。つまり落札するとそれが売上になる。落札できるのは年に数回だが、それでも年間で数十万から数百万の売上になった。しかし、売上にならなくても自分の手間は変わらない。なぜなら定期的に入札の告示を調べなければならないし、入札する際の事務仕事の手間も落札しようがしまいが変わらない。それに比べて上司は報告を受けて金額を決めるだけ。勿論、見積作成だって卸元や工事の下請けなどとの調整にも手間はかかるが、お役所の不親切なシステムに合わせた事務仕事の比ではない。場合によっては役所にも何度も行かないといけない。
そんな面倒な仕事でも、落札できたらいくらか自分の売上になるのなら相応のモチベーションも湧いただろうが、その上司は売上を独り占めした。たとえば、自分が売上目標などを課されない専業の事務員・サポート要員なら、それでも納得できたかもしれない。しかし実際はそうではなく、自分個人にも売上目標を課され、その達成度によって評価されていたので、全然納得できなかった。
こんなことを思い出したのは、ある自治体がコンビニトイレの公共化に協力する店を募っている、という記事を読んだからだ。
賛否渦巻くコンビニトイレの公共化 2月に始めた神奈川県大和市の出足は…:東京新聞 TOKYO Web
記事によると、神奈川県大和市がコンビニトイレの公共化に協力する店を募っているが、公共化に応じた店舗は開始2カ月半で11店舗だけ。大和市は、今年中に50店舗に増やす予定だが、協力した店に1年でトイレットペーパー200ロール支給するだけで、金銭的な補助は予定していないそうだ。
これを見て、本来行政の役割である公共サービスを、行政が押し付けやすいところに、断りにくそうなところに、押し付けようとしている、しかもリターンも出さずに、と感じた。それで冒頭で書いた、仕事や責任は押し付けるのに手柄は自分のものにしてしまう上司を連想した。このような施策には間違いなく政治家が絡んでいるだろうから、政治家がコストを割かず手間をコンビニに押し付け、こんな政策を実現しました!と自分の手柄にしようとしている姿が浮かんだからだ。政治家ではなく、自治体職員が、という可能性もあるが、何にせよ、手間だけを民間に押し付けて、成果は自分のものにしようとする政治絡みの誰かの存在が垣間見える。
現在でもコンビニはトイレを貸してくれるところが多く、だから何も変わらないだろ? と思う人もいるかもしれない。でもそれはあくまでも善意でトイレを貸しているのであって、行政の名の下に公共化されたら、一存でそれを止めることも難しくなってしまう。実際には止める自由があっても、一度始めた公共化を止めるとなれば近隣の評判が気になるはずだ。つまり公共化とはコンビニにトイレ提供の責任を追わせる、ということでもある。なのに、その責任への対価はトイレットペーパー200ロールだけ? 掃除や管理の手間やコストは一切無視? 自分にはそんなふうにしか見えなかった。
記事には、大和市の近隣自治体・東京都町田市では、同様の施策がある程度成功しているとも紹介されているが、町田市がそれを始めた時期は東日本大震災と重なっていて、それで助け合いの精神みたいなものが成功の背景にあった、と分析している。そんな背景があったとしても、少なくとも首都圏では震災後の緊急時から平時になったのだから、責任を負う者・果たす者には相応の対価を支払うのが当然なのではないか。
そのような背景におんぶにだっこなのは、ブラック企業などがやりがちな、所謂やりがい搾取のようなものではないのか。慈善というやりがいに政治がつけ込んでいる、と言えるのではないか。
そもそも、日本では地下鉄サリン事件をきかっけに公共のゴミ箱が少なくなっていて、更には2001年に米国で起きた同時多発テロ事件以降、テロ対策を理由に公共空間からゴミ箱がほぼ撤去されてしまった。そしてそれ以来ずっと、町中にゴミ箱が少なすぎ問題がずっと存在している。公共のゴミ箱が撤去された為に、それ以降町中のゴミは、自販機脇の空き缶/ペットボトル回収箱や、コンビニのゴミ箱がに向かうようになって、つまりゴミ回収に関しても、本来は自治体が公共のゴミ箱を設置するべきなのに、それが自販機業者やコンビニに、実質的に押し付けられてきた。このようなことに関しては、つい先日、5/8の投稿でも書いた。
ここ数年では、うやってそ関係のないゴミまでもが自販機脇の回収箱やコンビニのゴミ箱に持ち込まれるようになったことに業を煮やした業者が、回収箱を撤去したり、コンビニのゴミ箱が屋外でなく店内に設置されたり、コンビニからもゴミ箱そのものがなくなったりしているケースも珍しくなくなった。
外国人観光客が、日本はゴミ箱がないのに町がキレイ、と言っている姿などが、日本すごいの一例としてテレビなど取り上げられる場合も多いが、自分の肌感覚で言うと、国外の人たちは日本すごいと言っているとは限らず、場合によっては異様というニュアンスでそう言っていることも少なくない。不便だとか公共サービスの質が低いというニュアンスでゴミ箱がないと言っている、つまりおかしいと言っているケースだってある。
2001年の同時多発テロ事件以降、欧米諸国でも一時的にゴミ箱がなくなった地域や国もあるようだが、その後テロ対策を行ってゴミ箱が再び設置されているケースも少なくない。つまり日本は、地下鉄サリン事件や同時多発テロ事件をきっかけに行政がサービスを低下させ、そのつけを民間にまわしている状態が続いている、と言っても過言ではないだろう。
こう書くと、自分で出したゴミは自分で持って帰れば何も問題はない、ゴミを増やすな!みたいなことを言う人もいるが、ゴミはどこで捨てようとゴミに違いはない。また、ゴミ箱がないが為にポイ捨てされているケースは確実にある。人が多く集まる場所では、日本でも常にポイ捨て問題はある。人が多く集まるということは、その地域に相応の経済効果や恩恵があるわけで、その経済効果や恩恵は欲しいが、ゴミの回収という公共サービスは提供しない、トイレ問題は民間に押し付ける、なんてのは果たして妥当だろうか。
そんなことではやはり、手間とか責任とかは誰かに押し付けて、おいしいところだけ持っていこうとしている誰かがいる、と言われても仕方がないのではないだろうか。
最後に、この投稿を書くにあたって参考にした、バンド・トリプルファイヤーのボーカル・吉田 靖直が書いた記事を紹介しておく。
若者の路上飲み報道に感じた違和感…「街にゴミ箱が少な過ぎる問題」 | 文春オンライン
トップ画像には、睡眠 従業員 オフィス - Pixabayの無料ベクター素材 を使用した。