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原理主義的な考え方は危険

 神奈川新聞の「経口中絶薬の服薬「配偶者同意が必要」 厚労省が見解 」という記事が話題になっているのだが、公式サイトだと有料記事で冒頭部分しか読めないのに、Yahoo!ニュースだとその倍以上、もしかしたら全部読めているかもしれない。なんだかおかしな状況だな、と思った。

 それはさておき、この件について、こんなツイートがタイムラインに流れてきた。

 経口中絶薬とバイアグラを同列に語ることにはなんとなく違和感を覚えた。片方は妊娠にかかわる薬物であり、もう片方は妊娠ではなく勃起に関する薬品だからだ。
 確かに、経口中絶薬の使用について、妊娠は一方だけの問題ではないのだから配偶者の同意が必要である、が妥当なら、性交だって一方だけの問題ではないのだから、性交を目的とするバイアグラの使用にも配偶者の同意が必要なはず、望まない性交をされる恐れが高まる場合もあるのだから、みたいな捉え方はできるかもしれない。しかしバイアグラは正確には勃起不全を是正する為の薬物であり、必ずしも性交が目的とは言えないのではないか。自慰行為の為にバイアグラを使うケースはパートナーがいる人でもありえるだろうから、この例え方にはやはり違和がある。

 ただ、こんな考えも頭に浮かんできた。中絶薬は1つ(~5つ程度)の命になるはずのものの活動を止める。バイアグラも結果的に命になるはずのものの活動を止める。しかも億単位で。中絶薬の使用や中絶手術について、生命を奪う行為云々という理由でそのハードルを高める必要があるのであれば、勃起不全の矯正は常に射精を目的とするものであるから、中絶と同じ理由でバイアグラ使用のハードルも高める必要がある、と言えるのではないか、という考えが浮かんだ。

 男性器の勃起と射精は男性が主体的に行うことで、だから男性が独自にバイアグラの使用を決められる。妊娠は、決して女性だけではできないが、しかし女性にしかできないことであり、妊娠も出産も女性が主体となって行うことであり、それについての精神的・健康的リスク、そして場合によっては生活的なリスクも、そのほぼ全てを女性が主体となって負うことになる。なのに、妊娠継続するか、そして出産するか、それとも中絶するかを、女性が主体的に決めることができないというのは、男尊女卑が背景になければ正当化できないことだとしか思えない。つまり中絶薬の使用や中絶手術について、必ず配偶者の同意が必要、というのは、女性の権利を軽視しているとしか思えない。


 昨日の投稿では、米サッカー協会が女子選手に男子選手同等の報酬や待遇を約束したことと、1970年のテニス界における同様のケースで全米テニス協会が女子選手の要求を拒否して女子テニス協会が設立されたことの比較、そして日本は現在世界で唯一夫婦の別姓を認めず同姓を強制する国であることなどから、そのタイトルを「50年で変る社会と変わらない社会」とした。
 しかし米国でも一方では、保守勢力が強い南部のいくつかの州で妊娠中絶を非合法化する動きがあって、しかも5/2には、連邦最高裁判所が、妊娠中絶は女性の権利であると認めた過去の判決について、判決を覆す見通しであると報じられた。

妊娠中絶が禁止に?揺れるアメリカ、混乱の背景とは。トランプ前大統領の影響色濃く【経緯・解説】 | ハフポスト WORLD

 米国で初めて、妊娠中絶は女性の権利であると認められた、1973年のロー対ウェイド判決とは、テキサス州である妊婦が、ジェーン ローの仮名で、ダラス郡のヘンリー ウェイド地方検事に対して、中絶を禁止する州法は違憲であるとして起こした訴訟での判決のことだ。  連邦地方裁判所は、中絶を著しく制限するテキサスの州法は違憲とする判決を下し、1973年に最高裁も同じ判断を示し、胎児が子宮外でも生存可能になる以前の中絶は、憲法で認められた女性の権利であるとした。  この判決によって多くの州に存在した中絶を禁じる州法が無効となり、女性が安全に中絶手術を受けられるようになった。
 しかしその後も、聖書の教えを厳格に守るというか、キリスト教原理主義とも言えそうな福音派などを中心とした中絶反対派は存在しつづけており、福音派など保守勢力から支持を得る為に、トランプ前大統領は「中絶に反対する人物を最高裁判事に任命する」という公約を掲げて当選し、実際に就任後に3人の保守派の判事を指名した。これが、妊娠中絶は女性の権利であると認めた過去の判決について、連邦最高裁判所が判決を覆そうとしている、という動きにつながっている。

 例えば、テキサス州では、2021年9月に施行された中絶規制法で、妊娠6週目以降の中絶が禁じられた。6週で妊娠に気づくことは現実的でなく、実質的には中絶を受けられなくなっている。そして同法ではレイプや近親相姦による例外も認められない。この中絶規制法は違憲だとして差し止めが求められていたが、最高裁は5対4でその請求を退けた。
 福音派などの中絶反対派は「子どもを殺めることは神の意図を無視している」とか「どんな形であっても神が命を宿すと決めたことに背くことになる」という考え方だそうだが、レイプや近親姦などで女性に望まぬ妊娠をさせるのは神ではなく強姦魔である。不要な妊娠で子を殺すのは、中絶する女性ではなく強姦魔だ。望まない妊娠をさせられなければ女性は中絶しないのだから。でもなぜか彼らは女性に責任を追わせる。これにも女性の権利軽視、つまり男尊女卑が背景にあるとしか思えない。

 子を殺めるとか、神が云々なんて言うようであれば、男性の射精行為全般も禁止しなくてはならないのではないか。前述したように、中絶は1つ(~5つ程度)の命になるはずのものの活動を止めるだけだが、男性の自慰行為・射精は1度に億単位で命になるはずのものの活動を止めるのだから。
 聖書では自慰行為は地獄に堕ちる罪とされているそうなので、福音派など、聖書の教えを理由に妊娠中絶に反対する人たちは、同時に妊娠に繋がらない男性の射精全般を非合法化しようと訴えてしかるべきだろう。なのに、何故かそんな話は殆ど聞こえてこない。やはり背景に男尊女卑があるとしか思えない。正当な理由を伴わない射精が全て非合法化されたら、望まない妊娠をさせられる女性は確実に減るはずなのに。

 こんなバカげた話をするまでもなく、聖書は同性愛も姦淫の罪で死刑としているそうだから、キリスト教原理主義が如何に時代にそぐわないものかは明らかである。キリスト教原理主義は、女性の権利を大きく後退させるイスラム教原理主義と何も違わない


 一方で日本はと言えば、昨日の投稿でも書いたように、戦前の前時代的な価値観を称賛し回帰しようとする人たちが勢いづいていて、そんな勢力を政権を担う与党に有権者がずっと選び続けている。そんな人達が、伝統的家族感がー なんて言っていて、だからいまだに同性婚も選択的別姓も制度化されない。戦前の日本の価値観は明らかに国家神道と強い結びつきがあるので、今の日本は国家神道原理主義に侵されている、といっても過言ではないかもしれない。
 何にせよ、古い宗教的価値観をただただ追従し盲信する人たちは、つまり、どの宗教でも原理主義的な考え方は危険だ。昨日の投稿でも書いたように、何かを変えないと進歩はない。勿論何かを変えれば昨日しなかった失敗をする恐れもあるが、何も変えなければずっと同じところで足踏みすることになる。



 トップ画像には、Photo by Scott Sanker on Unsplash を使用した。

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