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日本人の大半は差別や蔑視を容認する人たち、少なくとも黙認する人たち

 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。これは日本国憲法第14条の条文である。日本国憲法の三代原則は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義とされていて、その中の1つ、基本的人権の尊重に関わる条文だ。

 日本国憲法第11条には、国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。とあり、これが基本的人権の尊重に関する最も基本的な条文だ。


 牛丼屋チェーン大手の吉野家の常務取締役が、早稲田大学の社会人講座に登壇し、「田舎から出てきた右も左も分からない女の子を無垢・生娘のうちに牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらえるようになれば、(牛丼は)絶対食べない」などと発言、しかも会場では笑いが起きた、という件が話題になったことは記憶に新しい。このブログでも4/20の投稿で触れた。
 その吉野家が、採用説明会に予約した大学生に対して、外国籍であると勝手に判断し、「就労ビザの取得が非常に困難」という理由で一方的に参加を拒否していたことが明らかになった。ことの発端はこのツイートからだった。これが事実なら、明らかに差別に該当する行為で、憲法14条に明確に反する。

 日本には長きにわたる部落差別の歴史があり、就職や採用についても、未だ部落差別が根強く残っていると言われている。また、在日朝鮮人・在日韓国人への差別も根強く、こちらも就職や採用にまつわる差別がなくなたったとは言い難い。これはその延長線上にある事案と言えるだろう。つまり吉野家は、いや、日本企業の中には、未だに前世紀の感覚から脱却できていないところがある、ということを強くうかがわせる。

 このツイートは瞬く間にあちらこちらで話題となり、その結果吉野家はこれが事実であることを認めた。吉野家の採用担当者が大学や居住地などの情報から、説明会参加希望者の一人を外国籍と判断し「就労ビザの取得が大変難しく、内定となった場合も入社できない可能性がある」などと記したメールを送り、予約を取り消したそうで、同様の対応は2021年1月ごろから行っていたそうだ。つまり他にも同じような対応を受けた者がいる、ということだ。

吉野家、外国籍と判断した大学生の採用説明会参加を拒否 差別的扱いと批判集まる:東京新聞 TOKYO Web

 この東京新聞の記事によれば、吉野家は採用サイトに「組織の活性化を目的に、外国籍社員の積極的な登用を続けています」と明記しているそうだ。それとの整合性を図りたいのか、単に責任逃れをしたいのか、吉野家はこの件について、

過去にビザを取得できずに内定取り消しをせざるを得なくなったケースがあったため、取り消された人の心象をおもんぱかり、やむなく断っていた
(ビザ取得が採用条件であることなどの)説明が不足しており、参加希望者への連絡にも不備があった。誠に申し訳ない

などと説明したようで、このような対応は、相手に配慮し善意からしてやったこと、説明が足りなかっただけで対応自体には問題がない、と言っている。そう指摘すると、そんなことは言っていないと反論しそうだが、そうとしか捉えられない説明としか言いようがない。つまり吉野家は、出自による差別は問題のある行為でやってはならない、ということを、まだ理解できていないとしか言えない。

 
 この件に関する新聞社のツイートなどを検索し、それに集まる反応を見ていると、外国籍排除で何が悪い!吉野家叩きたいだけだろwww みたいなのが少なくないのに驚愕する。排外主義日本人は決して少なくない。一部のバカが悪目立ちしているだけかもしれないが、そんなバカげた主張ができる社会である、ということに根本的な問題がある。そのような発想が適切に軽蔑されるような社会ならば、そんな空気が社会にあれば、そんなバカな主張が目立つことはない。
 2015年頃までは、同性愛、特に男性同士の同性愛について、性的倒錯だとか病気だという揶揄が平気で飛び交う状態がネット上にはあったが、今やそんな言説はほとんど見られなくなっている。その理由は1つではないだろうが、そのような同性愛差別・蔑視は愚かであるとか、そんな認識は全く正しくないという認識が広まり、社会的に適切に軽蔑される状況になった、というのもその理由だろう。つまり、排外主義的主張がまかり通るのも、日本社会にはまだ、排外主義が愚かであるとか分別のある大人のやることではないという空気が醸成されていないから、でもあるだろう。


 差別や蔑視は許されない、という空気は誰が先導すべきか。勿論その社会に属する全ての人がその役割を担うべきだし、責任を負っているんだろうが、社会に対する影響力の大きい人達・組織は、一般的な市民よりも確実にそれに大きな責任がある、と言える。影響力があるのにそれを行使しないのは、いじめが起きているのに見て見ぬふりするのと同じだし、沈黙は中立ではなく寧ろ加害行為への加担する側面が強い。
 そして日本では、憲法に、すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない、と定められているのだから、誰かが明確に差別されるような社会問題については、国で最も影響力のある組織である政府、そして国で最も影響力を持つ存在の1人である首相は、差別や蔑視は許されれない、と明確に差別や蔑視を非難し抑制・牽制する責任がある。しかし、今の政府はそれを全くやらない。
 この吉野家による就職差別の件だけでなく、在日朝鮮人・韓国人が多く住む京都のウトロ地区が放火されても、神奈川・川崎の在日朝鮮人・韓国人施設に脅迫状が届いても、静観するだけで何も言わず何もせず、差別や蔑視に対する非難・抑制・牽制を一切やらないのが今の自民政府だ。


 今日のトップ画像は、5/4の DOMMUNE の配信を見ながら作ったものだ。

Q(WE)R Presents「ACT UP! FIGHT BACK! BLEND is beautiful!」

 画像の右にあるJLDPとは、 Liberal Democratic Party、つまり自由民主党のことであり、J はジャパンのJで、Liberal Democratic Party、という政党は他の国にもあることから、区別できるようにつけてある。番組トークパートの終わりに次のようにツイートしたが、この画像に込めた思いも同じだ。

 逆に言えば、これからも日本の有権者が自民党を選びつづけるようであれば、日本の有権者の大半、つまり日本人の大半は、差別や蔑視を容認する人たち、少なくとも黙認する人たち、見て見ぬふりする人たち、いじめがあっても静観する人たち、困っている人がいても手を差し伸べずに素通りする人たち、ということになるだろう。


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