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全ての人から同性愛者を省く自民党候補

 普通の意味を辞書で調べると、ごくありふれたものであること、それがあたりまえであること、などと書かれている。で、ありふれたものはなぜありふれているのか、当たり前はなぜ当たり前なのか、を考えると、それは多くの人がそうしたり、そう考えたりするからありふれるのであり、当たり前になるんだろう。つまり普通とは、概ね多数派の思考や傾向のことを指す、と言ってもいいだろう。

 勿論、多数派が普通ではなく異常な場合もある。たとえばナチス・ドイツはそうだった。そんな例外もなくはないが、普通が多数派を意味するなら、日本人の半分以上は、同性婚も別姓も頑なに拒み続ける政党を支持するのだから、もしくは投票を棄権することでそんな党を否定しない、つまり、消極的にかもしれないが容認するのだから、「普通の日本人」というのはいじめとハラスメントが何より好き、差別を平気でやる、という話は概ね間違ってない。好きでなかったとしても、少なくとも、いじめやハラスメント・差別・蔑視を否定しないのが普通の日本人だ、とは言えるだろう。
 言い方を変えると、ナチス・ドイツ同様に、日本の多数派は普通ではなく異常、とも言えるだろう。

 6/28の投稿で、現在選挙期間中の参院選に自民党から立候補した、元アイドルの生稲 晃子が、毎日新聞の候補者アンケートの25の設問について、憲法改正に賛成という1つを除いて他は全て無回答だったことに触れた。
 毎日新聞によるアンケートだけでなく、他媒体のアンケートに対してもほとんど無回答で、それに対する批判が高まったことを受けて、生稲やその周辺は、事務所の手違いで無回答になったかのようなまるで説得力のない釈明をした。そして生稲は、自身のツイッターアカウントにて、NHKのアンケートへの回答を示した。NHKのアンケートには同性婚に関する設問もあって、生稲は明確に反対回答した。


 これを前提に、生稲の公式サイトを見てもらいたい。

いくいな晃子(生稲晃子)公式| 参議院議員候補[東京選挙区・自民党]

 トップページに、「いくいな晃子 ごあいさつ」として、Youtubeにアップした「いくいな晃子 参議院議員選挙立候補にあたっての決意」という動画を掲載している。

いくいな晃子 参議院議員選挙立候補にあたっての決意

 当該動画のサムネイルにも、

誰もが働きやすく、自分らしく生きられる国へ

とあるし、動画の中で自身の口でも同じことを言っている。しかし生稲は、一方で同性婚を法律で認めることには明確に反対だとも言っている。ということは、生稲の言う「誰もが」には同性愛者は含まれない、ということになる。
 誰もが働きやすい国、というのには、間違いなく誰もが自由に結婚できることが含まれるはずだ。身分や親の意向などによって、愛する人との婚姻を阻まれるような社会は、確実に誰もが働きやすい社会とは言えない。ある労働者には配偶者優遇が認められ、ある者には認められない社会は、婚姻関係を結びたい相手と婚姻できる者とできない者の間に、働きやすさの格差が生じるからだ。
 また、自分らしく生きられる、なんてのはそれ以上に明快で、同性婚を認めない国では、同性愛者の大半が自分らしく生きることができない。つまり、同性婚を認めない国は、誰もが自分らしく生きられる国ではない。”誰もが” は言い換えれば ”全ての人が” という意味なので、全ての人に同性愛者を含めない、ということであれば、同性婚を認めないことと、誰もが働きやすく、自分らしく生きられる国を目指すことは両立するだろうが、その場合、同性愛者は人ではない、同性愛者の人権は制限されて当然、と言っていると解釈することさえできるだろう。

 つまり、生稲の言う「誰もが」は口先だけ、だから平然と同性愛者を排除・除外する、決して全ての人という意味ではない、ということだ。さすがは「募ったが募集してない」と党のトップが国会で言い放ち、それを誰も否定も批判もしない党から出馬しただけのことはある。

 付け加えると生稲は、選択的夫婦別姓についても次のように回答している

NHKアンケートへの回答は、賛成・どちらかといえば賛成・どちらかといえば反対・反対・回答しない からの選択方式で、これでは無回答も同然だ。また、この言い草はこれまでの自民党の定型文と全く同じであり、その自民党が頑なに、世界で唯一になっても、夫婦別姓を認めないことを考えれば、寧ろ反対と言わずに反対と言っているにも等しい。
 外国人との婚姻関係であれば、日本人でも別姓が認められるのに、日本人同士では別姓を認めず、しかも世界で唯一なのだから、また、ほぼ女性側が婚姻関係を結ぶ際に男性の姓に改めるのが実情であり、選択的別姓を認めないことは、結婚後も自分の名前を維持したい女性が働きにくい国、自分らしく生きられない国、ということになる。つまり生稲の「誰もが働きやすく、自分らしく生きられる国へ」というスローガンは羊頭狗肉・美辞麗句以外のなにものでもない。また、誰もが、に同性愛者や自分の名を維持したい女性らが含まれないということであれば、生稲は差別主義者であるとも言える。

 本人にその意識があろうがなかろうが、間違いなく差別的思想を持っていることは明白だ。法の下の平等を理解せず、人権尊重を重視しない者を政治家に選んだらどうなるか。その成れの果てが戦前のナチス・ドイツだ。



 トップ画像には、要約 虹 パターン - Pixabayの無料写真 を使用した。

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