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5月, 2021の投稿を表示しています
 

井崎 脩五郎の競馬予想に自分の家を賭けるようなもの

  偏向 とは、考え方がかたよっていること、もしくはその傾向のことである( 偏向とは - コトバンク )。  元々は偏る方向性に関するニュアンスは帯びていなかったのだが、この10年ぐらい、自称保守の人達が偏向報道という表現を多用しており、彼らは気に入らない報道について偏向報道とすることが多く、所謂リベラル傾向の強い報道や、自民政権への異論となる報道をそう呼ぶので、偏る方向性に関するニュアンスを帯び始めているようにも思える。

やめられない とまらない

  やめられないとまらない 、はカルビーの定番スナック菓子・かっぱえびせんのCMコピーである。かっぱえびせんから独立して「 やめられない、とまらない 」単独のページがWikipediaにある程有名なコピーだ。当然、かっぱえびせんが美味しすぎて食べるのをやめられない、手をとめることができない、の意である。

保守主義 ≠ 差別主義

 「真摯」「丁寧」「誤解」「印象操作」など、現自民政権下で与党政治家らの濫用によって、本来の意味とは異なる意味、場合によっては360度正反対の意味すら付加されてしまった日本語は枚挙に暇がない。00年代以降、その意味が変容している、いや、実際は誤用が常態化しているだけで、本来の意味が失われたわけではないので、変容は少し違うかもしれないが、 本来とは異なる用いられ方が甚だしい言葉に「右翼」「保守」がある 。

自分の責任について、専門家の意見を仰ぐという首相

 仏教では、お経を唱えるだけで救われることになっている。地域によっては、マニ車を回せばよい、とされているような場合もあるが、マニ車にもお経が書かれていて、マニ車も結局は「お経の代わり」だ。  そのようなことから、同じ文言をただただ繰り返すだけの様子を、 呪文か念仏を唱えるかのように 、と揶揄することもあるし、実行性の伴わないことや心にもないことを言う口先三寸な様子を、 空念仏 ・ 空念誦 と言ったりもする。

人権軽視オリンピックで世界が一つになる?

  協調性 という言葉の呪いについて、「 クラスみんな仲良く 」という、日本の学校教育の中で頻繁に用いられる話を例にして書いたのは5/20で、ほんの1週間前のことだった。その投稿「 協調性という呪いのことば 」でも、オリンピックについても触れたが、もっとがっつり触れないといけない話がまた出てきた。

普遍的で根本的な倫理規範の尊重

  オリンピック憲章 の前文の次の項である「オリンピズムの根本原則」にはこんな文言がある。

本文も読まずに批判するな、のおかしさ

  トップ画像に用いたのは、実はヒレカツの写真ではなくメンチカツの写真 だ。ヒレカツ定食のメニュー写真にメンチカツの写真が使われていたら、メンチカツをヒレカツと偽っているのだから、それは間違いなく嘘である。但し、注目して実際に出てくるのがヒレカツ定食であれば、9割の人は文句を言わないだろう。

日本語が理解出来ない閣僚/官僚たち

 前にもどこかで書いたような気がするが、父方の祖父は晩年、 都合が悪くなると、耳が遠いくて聞こえないフリをする ようになっていた。誰かに何かを注意されても、それが気に食わないと、聞こえないフリをしてまた同じことを繰り返す。祖父の場合はそんなに深刻なことにはならなかったが、高齢者による交通事故が増えている昨今の状況を考えると、深刻なことにもなりかねないな、と思う。

地に落ちた信用

 嘘ばかり吐いていると誰にも信用されなくなり、肝心な時に大変なことになる。日頃から誠実に振舞い、信頼/信用を得ることが大事だ、ということを示しているのは、 The Boy Who Cried Wolf 、日本語だと「 羊飼いと狼 」「嘘をつく子供」または「オオカミ少年」などと訳される、イソップ童話の1つだ( The Boy Who Cried Wolf - Wikipedia / 嘘をつく子供 - Wikipedia )。

ジャイアンとスネ夫、IOCと日本の五輪関係者

 「この町で俺にかなうものはいない。 俺は王様だ。さからうものは死けい! アハハ。いい気持ちだ 」はドラえもんのガキ大将キャラ ジャイアンの強引・横暴さを象徴するセリフである。その手のセリフの中では「おれのものはおれのもの おまえのものも おれのもの」が特に有名で、そのような強引・横暴な姿勢は、彼の名に因んで「 ジャイアニズム 」と言ったりもする。

差別禁止は都合が悪い自民党

 トップ画像はコラージュであり、実際の自民党本部を撮影したものではない。しかし、実際にはこのような状態であるが、それを濁しているに過ぎない。それが垣間見える話が昨日報じられた。

協調性という呪いのことば

 あるマンガで、クラスの文化祭準備よりも自分の予定を優先する高校生が描かれていて、「 こういうの「協調性」に欠けるって言われるんだよな 」と思った。それは確かに協調性に溢れた姿勢ではない。しかし、自分の予定よりもクラスの都合を優先することが優れていて、自分の予定を優先する者はそれよりも劣っている、と言えるだろうか。少なくとも日本では、そう認識される場合がかなり多い。

医療現場を圧迫する五輪「断る勇気」

  断る勇気 。東京都が薬物乱用防止キャンペーンに用いているコピーだ。誰かに甘い言葉で「一緒にやろう」と誘われても毅然と断る勇気を持とう、という意味が込められている。この断る勇気というコピーは薬物乱用防止だけでなく、いじめ撲滅の為にも「あいつを無視しようなどと誘われても…」のような文脈で用いられるし、暴力団排除の場面でも、みかじめ料の要求等への適切な対処の1つとして、しばしば用いられている。

政治をしないなら「政府」ではない

  政府とは何か 。日本の歴史教科書では、明治期以前の武家による統治機構は幕府、更に鎌倉幕府以前の天皇家や貴族による統治機構は概ね朝廷と表現している。但し平家の政権に関しては、武家政権なのに幕府とは呼ばない。それは平氏政権が、藤原政権などの貴族による政権と同様に、朝廷内部で政治を行う形態だったからだろう。

「考えるな、従え」という教育まがいの何かを、何十年も続けた結果

 筑波大付属坂戸高校では、4月から制服に加えて私服を導入し、校則に15項目あった「整容」の規定を、「 学校生活にふさわしい服装と容姿を、状況や他者にも配慮して自身で判断すること 」のみにしたそうだ。生徒会総会で「ピアスはなぜ禁止なのかを先生は説明できるのか」などの疑問が投げかけられたのをきっかけに、生徒会を中心に学校側と協議した結果らしい。

批判や異論を、クーデター・テロに変えるエフェクター

  BOSS DS-1 と言えば、日本が世界に誇るコンパクトエフェクターの1つである。BOSSはギター/ベース用エフェクターのブランドとして、今では世界的に有名な存在だが、その原点は1977年に発売されたOD-1 オーバードライブだった。 DS-1 ディストーション は1978年に発売された。後継機がリリースされた今もラインナップに残り続けるベストセラーだ。

最終的な権限はIOC、という詭弁

 毎日毎日、これでもかこれでもか、という程、支離滅裂な話が政治の方から聞こえてくる。ツッコミどころが多すぎて、全部にツッコミを入れるのは、ツイッター程度の短文でも、1日中画面の前に張り付いていなければハッキリ言って無理なのではないか、という程だ。そんな風に山ほどある支離滅裂な話の中から、今日の投稿では「 オリンピックに関する権限 」について書くことにする。

いち、に、さん、が、一本歯に変わる瞬間

  昨夜のDOMMUNE は、久しぶりにDJオンリーの放送だった。いや、もしかしたら自分が見ていない回にもDJオンリー回があったのかもしれないが、兎に角自分の記憶では、かなり久しぶりだった。表参道のクラブ・VENT BARで5/15に行われるイベントの前夜祭のような放送で、ゴリゴリにハードなテクノを4時間半堪能出来て、非常に満足度が高く、番組の間はストレスから解放された気分だった。

油壺マリンパークの閉館発表に際して

 今日のトップ画像は「いるかの目」のアップである。これは2008年に油壺マリンパークで撮影した画像だ。何故か解像度は640*480だった。時期的に、ソニーのコンパクトデジタルカメラのブランド・Cyber-shotを冠した携帯電話、511万画素カメラ搭載のW61Sで撮影した画像のはずなのに、保存してあったのはすこぶる解像度が低い画像だった。動画撮影機能が丁度その解像度だったので、動画で撮ってそこから切り出した画像かもしれない。

我々はプラットフォームで"場"を提供しただけ、という詭弁

  プラットフォーム とは、フランス語由来の表現なのだそうだ( プラットフォーム - Wikipedia )。 ほかより一段高くなった水平な場所、台状のもの を指すのが原義のようである。日本語化している駅のホームもプラットフォームの省略だ。あれは線路から一段高くなった平らな形状で、まさにプラットフォームそのものだ。

見えないフリ、きこえないフリ、理解出来ないフリ、勘違いしたフリ、そしてコメントを控える

 中国が独自の宇宙ステーション建設の為に打ち上げたロケット、長征5号Bの残骸がインド洋に落下したそうだ。これに関して、NASA長官が「宇宙で活動する国は、物体の再突入では、人々や財産へのリスクを最小化しなければならず、運用の透明性は最大化させなければいけない」と指摘する声明をだしたそうだ。

会話は言葉のキャッチボール。キャッチする気のない人達

  会話は言葉のキャッチボール なんて表現があるように、会話も議論も相手の主張を前提にした返答をしないと成り立たない。相手の言っていることを無視して、自分が言いたいだけのことを言う、言い合うのは、会話や議論とは似て非なるものだ。それは単に言葉を発している、発し合っているだけに過ぎず、会話や議論とは言い難い。

GW後の静かな週末に、今の状況を見つめ直す

 モータースポーツを見るのが好きで、特にテンポよく抜きつ抜かれつのあるバイクのスプリントレースが好みである。その理由から、所謂最高峰カテゴリよりも、最も接戦となる確率の高い小排気量クラスが面白いと感じる。そのクラスは若いライダーも多く、ハプニングが多いのも見る側にとっては面白さであり、大きな魅力だ。

自分の頭で考えず、決まったことを受け入れる、という日本人の悪い癖

 毎日新聞に幻滅した。数年前まで、毎日が日本で最もまともなメディアだと思っていた。しかし、徐々にその思いは変化し、何についても基本他人事のような毎日の報道は、決してまともとは言えないと考えるようになった。 おかしいことをおかしいと書かずに、○○した/××と言った、とだけしか書かないのは果たして誠実か 。今の自分には、全くそうは思えない。そしてそれは毎日だけに限った話でない。

差別にNOと言えないニッポン

 なぜ日本の政治家、特に現与党・自民党、そして政府関係者、特に首相を始めとする大臣は、国内で人種差別事案が起きても、一切反応を示さないのか。差別にNOを明確につきつけないのか。今日の投稿はそれについての4コマ

2週間後を見通せない者に、3か月後、1年後は当然見通せない

 アリとキリギリスという童話がある。イソップ寓話の一つだ。 冬の状況を見通せずに夏に遊んでばかりいたキリギリスは冬に飢え死にし、冬を見越して夏の間食料の備蓄に励んだアリは無事冬を越す 。夏に自分達をバカにしたキリギリスに、アリが救いの手を差し伸べるパターンもあるが、それは近代以降に手が加えられた改変作のようだ( アリとキリギリス - Wikipedia )。

最終判断はいつまでに下すべきか

 急に上司から「明日のシフト変更して休みにして」と言われたら、何日も連続勤務を強いられていて、休みは一日中泥のように眠りたいような状態でもなければ、一人で過ごすのが好みでも、休みを損した気がするだろう。 急に休みを言い渡されても、そのタイミングで計画を立てられる幅は狭く、できることが限られる からだ。

消えた公明党ポスター

 以前にも書いたが( 2019年7/14の投稿 )、近所に、選挙が近づくと「公明党よろしくね!」と声をかけてくる、 所謂公明党おばさん の家がある。多分夫婦で住んでいるんだろうが、おばさんしか見たことがない。いや、夫など家族も見たことがあるが、その家の人だと認識していないだけかもしれない。なんにせよ学会員の家がある。

憲法改"正"という羊頭狗肉

 これは羊頭狗肉を分かりやすく表現する為に誇張して作ったイメージである。こんなにも分かりやすい 羊頭狗肉 はそうそうない。写真のBMW 5シリーズは同車種の第1世代で、1972年から81年にかけて生産されたモデルなので、純正ナビやカメラなんてあるはずない。

議論を尽くしたか否かは、時間や回数で決まるものでなくその内容に次第

 国家公務員の定年を65歳に引き上げる国家公務員法改正案などと束ねられた、検察庁法改正案を、「 新型コロナウイルス感染拡大のどさくさに紛れた火事場泥棒 のよう」と、立憲民主 枝野が断じたのは、約1年前、2020年5/11のことだった。それに関する記事「 検察庁法の審議、枝野氏「火事場泥棒のよう」首相は反論:朝日新聞デジタル 」には、当時の首相 安倍が反論したとあるが、国民からの批判は止まず、結局は廃案になった( 検察庁法改正、いったん廃案へ 定年延長の修正検討も [検察庁法改正案]:朝日新聞デジタル )。

インスタントや冷食は手抜き?全自動洗濯機は?ロボット掃除機は?

 大抵の日本人にとって、 味噌汁は最も代表的な家庭料理 なのではないか。自分は、20歳頃までは味噌汁なんて必要のないメニューの最たる例だと考えていたが、外食する回数が増えるにつれ、味噌汁を有難がるようになった。例えば、牛丼屋はデフォルトで味噌汁がついてくる松屋に限ると思っている。