デイリースポーツが3/9に掲載した記事「ローラ 今度は「男女平等」訴える…辺野古埋め立て反対、環境問題、動物愛護」が話題になっている。どのように話題になっているかと言うと、ハフポストの記事「ローラが国際女性デーを祝福したら問題なの? 海外の芸能人の動きは…」が書いているように、デイリーの論調は「ローラ、辺野古移設に反対してたかと思ったら、今度は男女平等とか言っているよ(笑)」という、ローラさんを馬鹿にした態度が滲み出ていると主張している人が少なくない。
昨日の投稿「良くも悪くも言葉は、時には鋭利な刃物以上に人の心に刺さる」では、コミュニケーションの中では、言葉が意図した意味とは違う形で受け取られてしまうことが多々あること、その原因は言葉を発する側にある場合も受け手にある場合もあることなどを指摘した。その上で、概ね人格否定と受け取られるような表現に起因するコミュニケーション上の齟齬は(言葉を発する側が「誤解を招いた」などと、齟齬だと言い張っているだけの場合も)、言葉を発する側の責任が、受け手よりも大きい場合の方が多いことを指摘し、その具体例などを書いた。しかしこのローラさんに関するデイリーの記事の件は、受け手側が表現全体ではなく、ある一点に注目し過剰に反応してしまった、若しくはローラさんを馬鹿にしていると思い込んでしまっているように感じる。
2018年12/23の投稿「日本の有名人が政治姿勢表明に消極的な理由」でも書いたように、ローラさんが辺野古移設反対の署名を呼び掛けた事について、彼女を馬鹿にしたり揶揄したりする者が決して少なくなかった(少なくともSNSやWeb上の所謂まとめサイト、一部メディアなどでは)。そしてデイリーの記事にもある、彼女が男女平等や環境問題への危惧、動物愛護の必要性など社会問題に関する主張をすることについても、「何もわかっていない馬鹿芸能人の自慰行為」「偽善者」のような誹謗中傷としか言えないような見解を示す者が、少なからずいるのも事実だろう。
しかし、デイリーの記事は「ローラ、辺野古移設に反対してたかと思ったら、今度は男女平等とか言っているよ(笑)」のような論調と断定できるだろうか。自分には全くそうは見えない。確かに、デイリーの記事はローラさんの姿勢を全面的に肯定・称賛しているとは言い難い。しかし、ハフポストの記事は
一部のメディアが「今度は…」と揶揄するようなタイトルを付けて報道。と指摘しているが、「今度は」は果たして揶揄なのだろうか。
自分がこの件を初めて知ったのは、
というツイートでだった。まるで「男女平等」を訴えることが悪いことみたいな記事だな。いつまでもローラが「おばか」でいてほしいのか?— mold (@lautream) 2019年3月9日
ローラ 今度は「男女平等」訴える…辺野古埋め立て反対、環境問題、動物愛護(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース https://t.co/kSgsloc9yI @YahooNewsTopics
自分がフォローしているロバート キャンベルさんも、
— ロバート キャンベル (@rcampbelltokyo) 2019年3月10日とツイートしていた。
この投稿を書くにあたってツイッターで”ローラ”と検索したところ、このところ丸山穂高議員から中傷を受けてやり合っている、”なうちゃん”というリベラルな主張で人気を集めているアカウントも、この件に関して
とツイートしていた。「今度は「男女平等」」って、男女平等訴えることがおかしいのですか?「余計なことを言っている」と言わんばかりの見出しが不愉快です。— なうちゃん (@nauchan0626) 2019年3月10日
ローラ 今度は「男女平等」訴える…辺野古埋め立て反対、環境問題、動物愛護(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース https://t.co/xPkBiaZ9p3 @YahooNewsTopics
デイリーの記事は、確かに受け手によってはローラさんの姿勢を皮肉っているようにも見えるだろう。しかし「辺野古移設の次は、今度は男女平等かよ(笑)」ではなく、「辺野古移設反対を訴えたローラさんが、今度は男女平等の為に立ち上がった!」のように受け取ることも出来る記事の内容だという事を、明確に否定できるような表現は記事の中に見当たらない。つまり、前述のようなこの記事への批判というのは、受け手側の過剰反応、デイリーの記事へレッテル貼りをしているという側面もあると言えるのではないだろうか。
ローラさんが辺野古移設反対への署名を訴えた際に、デイリーが、例えば彼女の姿勢を皮肉るような・揶揄するような記事を掲載していたのなら、今回の記事で明確な皮肉・揶揄がなかったとしても、前述のような記事への不快感が示されてもある程度は仕方がないかもしれない。しかし検索をしてみても、「ローラ 毛皮、プラゴミに続き今度は…辺野古埋め立て反対 署名呼び掛け」という記事がヒットするだけだ。その内容は決してローラさんを揶揄しているとは言えない。
もしかしたら、他にも記事があったのにデイリーがそれを削除した恐れもあるし、Webにはないだけで紙面では揶揄するような内容の記事・見出しを使っていた恐れもある。しかし、そのような具体的な指摘なしに、懸案の記事について「ローラさんを馬鹿にしている」と主張するのは、果たして妥当なのだろうか。記事の表現をどう受け止めようがそれは個人の自由だろう。しかし、受け止めるまでは自由だろうが、書いていないことを書いてあるかのように批判すればレッテル貼りになりかねないし、場合によっては中傷になるかもしれない。
そして何よりも、そのような合理性があるとは言えない批判を繰り広げれば、実際にローラさんを馬鹿にしたり揶揄している人達へ、「擁護している者らは根も葉もないことをでっち上げる」という主張をする為の材料を与えかねない。果たしてそれは望ましい結果・影響かと言えば、到底そうは言えないだろう。
昨日の投稿でも書いた事の繰り返しになるが、投稿者は「自分の思った事を率直に投稿しただけ」と思っていても、それが思いがけない影響を引き起こす事はしばしばある。SNS、特にツイッターのような短文SNSでは、表現が過大になり過ぎる傾向がある。
例えばロバート キャンベルさんの当該ツイートには、この投稿を書いている時点で既に1万件以上のいいねがある。キャンベルさんのツイートを読んだ上でデイリーの記事を読めば、少なくない人が「デイリーの記事はローラさんを揶揄している」と感じるだろうし、中には記事すら読まずにいいねをしている人もいるだろう。人によっては純粋に「いいね」ではなく、メモとしていいね機能を利用している人もいるだろうが、そのような人ばかりとは思えない。恐らく大半の人は何気なくいいねをしているのだろう。
どんな人の投稿であっても、どんな内容の投稿であっても、その投稿の内容が本当に実態に即しているか、自分の頭で、どんな時も判断しなくてはならないし、それを怠ると、前述のように、「自分の思った事を率直に投稿しただけ・いいねしただけ・リツイートしだだけ」と思っていても、それが思いがけない影響を引き起こす事はしばしばある。