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過去の失敗を活かせない日本社会の風潮、その原因は「責任逃れ」にあるのではないか


 東大阪市のあるセブンイレブン店主が、アルバイトが集まらず24時間営業を続けることが困難であるとし、本部に対して午前1-6時の間店を閉めることを求めたが、本部は24時間営業が原則とし、24時間営業をしなければ契約解除・1700万円の違約金が発生すると店主に伝えたという事案が、先月(2019年2月)話題になった(朝日新聞の記事「セブンイレブン「24時間営業限界」 FC店と本部対立」)。
 他のメディアの報道によっては、本部側は「1700万円の違約金が発生する」とは伝えていない、と主張しているというような記事もあったようだが、本部側が24時間営業を強いていた事には間違いがなかったようで、それぞれの店舗の実状も勘案せずに24時間営業を強いるのは如何なものか、という世論が高まったことで、積極的とは言えないが、本部側も方針を転換せざるを得なかったようだ(TBSニュースの記事「セブン-イレブン、営業時間短縮実験を21日から開始」)


 この件が話題に上った際に感じたのは、
 この国に蔓延る過去を教訓にしない風潮は一体いつ改善するのだろうか
ということだ。
 牛丼チェーンのすき家で、深夜のワンオペ業務や、手間のかかるメニューの導入による業務量の増大など、労働環境や待遇の悪さを訴えることが目的のアルバイトらの一斉退職やストライキが起きたのは2016年のことだ(弁護士ドットコムの記事「「すき家ストライキ」騒動の真相は? 千葉の労組「店舗ではなく工場で一人が決行」」)。記事では店舗でなく工場でのストライキだとされているが、この時期に人員が確保できずに休業する店舗が相次いだことは紛れもない事実である(Naverまとめ:牛丼チェーンのすき家がアルバイトの一斉退職で店舗閉鎖続出 続くパワーアップ工事)。
 そしてこれをきっかけに、主に飲食業界で24時間営業を見直したり、年末年始まで全て営業する年中無休の見直しがされるようになった。飲食業界とは異なる理由もあるのだろうが、その動きはデパートや百貨店、大型スーパーなどにも一部広がりを見せた。年末年始の休業に関しては、このブログでも2017年12/20の記事で触れた。つまり、今回のセブンイレブン本部側の対応は、この2年間に起きた事を無視した判断であるとしか思えない。

 更に昨日は「コンビニ店主は「労働者に当たらず」 中労委が初判断」(J-Castニュース)という報道もあった。
 コンビニのフランチャイズ(FC)店主らでつくる団体が本部との団体交渉を求めていた問題で、国の機関である中央労働委員会は2019年3月15日、FC店主について「独立した事業者であり、労働組合法上の労働者には当たらない」との初判断を示した。本部側が団交に応じない点についても「不当労働行為には該当しない」と認定した。
という記事だ。 これも過去を教訓にしない判断としか言えない。しかもこの判断を示したのは厚労省の外局・労使間関係の調整をすることが仕事の中央労働委員会である。
 確かにコンビニの店主らは本部とフランチャイズ契約を結ぶ経営者であり、本部と店主の間に明確な労使関係があるとは言えないかもしれない。しかし実質的には被雇用者と雇用者のような圧倒的な力の差があるのは間違いない。中労委の判断は余りにも杓子定規で、そのような組織が労働者の権利を守ってくれるとは到底考え難く、ここ数年頻発している裁量労働制法案関連のデータ捏造、年金に関する数々の問題、障害者雇用の水増し、毎月勤労統計の不正などを勘案すれば、最早「厚生」も「労働」も蔑ろにする省のようにすら思えてくる。
 この件が何故過去を教訓にしていないと言えるのかと言えば、2005年にマクドナルドのある店長が起こした残業代の支払いを求める訴訟、所謂名ばかり店長・名ばかり管理職の問題の結論が既に示されているからだ。まぐまぐニュースの記事「マクドナルド「名ばかり店長」の残業代未払いは何が問題なのか?」では、管理監督者の条件を次のように定義している。
  • 労働時間・休憩・休日等に関する「規制の枠を超えて」活動せざるを得ない、重要な「職務内容」「責任と権限」を有していること。
  • 時を選ばず、経営上の判断や対応が要請され、労働時間等の規制になじまないものであること。
  • 賃金等の待遇が、その地位に相応しいものであること。
これら3つを全て満たすのが、労働基準法の「休憩及び休日に関する規定」から除外される監督若しくは管理の地位にある者(管理監督者)の条件なのだそうだ。コンビニの店主らは、自ら本部とフランチャイズ契約を結んだ経営者であることに違いはない。しかし一方では本部によって24時間営業を強いられており、更に「24時間営業を止めれば多額の違約金を求める」という脅しのような意思表示をされているのであれば、自身の判断だけで休憩・休日を決定できる裁量を有していないとしか言えない。
 そんな点を勘案すれば、中労委の判断は余りにも残念と言わざるを得ない。いや、残念どころではなく、労働者に寄り添った判断とは到底言えず、労働委員会などと名乗らないで欲しい。更に言えば、「厚生」や「労働環境」の充実を重視しない厚生労働省にも、厚労も労働も名乗らないで欲しい。


 ハフポストの記事「小泉進次郎氏が訴える「働き方改革の最大の壁」とは?」によると、小泉氏は3/18に都内で開かれたシンポジウムで、参加した約150社の企業のトップらに対して、
 働き方改革の最大の壁は国会と霞ヶ関です
 国が決めている働き方改革で、みなさんは来月から義務を負います。だったら、それに伴って我々や霞ヶ関でもやるべきことがあるんじゃないか。『まず隗より始めよ』という言葉あるが、『まず官より始めよ』。これを、みなさんが声を大にしてぶつけていただくことが大事だ
と述べたそうだ。これを見て「小泉進次郎はまともな事を言っている」と思う人も多いだろう。確かに大筋で考えれば、彼は現在の役人(霞が関)や政治家(国会)の至らなさを憂いているように見えるし、決して大きく間違ったことは言ってはいないだろう。
 しかし一度落ち着いてよく考えてみて欲しい。彼は自民党の議員である。そして、現在霞が関(役人)を統括運営しているのは、彼の所属政党・自民党の総裁・安倍氏が首相を務める政権である。また、国会で過半数の議席を持つ最大勢力も自民党である。日本は議院内閣制なので当然のことなのだが、「働き方改革の最大の壁が国会と霞が関」であるならば、それは、
働き方改革の最大の壁は自民党です
ということだ。 つまり、彼の言い草はまるで他人事、自分もその壁の一人なのにも関わらず「働き方改革を阻んでいるのは役人と政治家全体」と言い換える事で、自民党の責任を矮小化しているように感じられる。いかにも政治家的で狡猾、つまりずる賢い人気取りを目的とした姿勢にしか見えない。少なくとも自分には。

 小泉氏のこの姿勢は、「自民党の責任を減らそうとする」姿勢、つまり責任逃れの姿勢という側面が十中八九あるだろう。セブンイレブンが24時間営業を強行に維持しようとしたのも、24時間営業中止を認めてその影響で売上が減少すれば、その責任をとらされるかもしれないという経営陣らの責任逃れのようにも思えるし、中労委の判断も、杓子定規な事なかれ主義で労働者の権利も軽視した責任逃れの判断のように思う。つまり、今の日本では、過去を教訓に社会を改善していくことよりも、既得権者・現状の立場を維持したい者らによる責任逃れの方が重視されているということなのではないか。




追記:
 昨年文科大臣に就任した柴山氏が、就任早々教育勅語を肯定するかのような発言をして批判を浴びた(2018年10/6の投稿)。 しかし未だに、こんなバカげたことを言って教育勅語を肯定しようとする人がいる。


「天皇陛下の為、国の為に命を捧げたい人はどうぞご自由に」で、本人がそう思うのは全然構わないが、それを認めるとエスカレートして「捧げない奴は無責任・非国民」と他者にも犠牲を強要し始めるから、その発想は危険性が指摘されている。これが教育勅語を否定すべき明らかな理由だ。現にそれで戦前戦中どれだけ無駄な犠牲を生んだかを知らないから、というか直視しないから、軽はずみに「教育勅語の何が悪い」なんて言い出すのだろう。そのような過去を教訓にすれば、「国の為に命を捧げるのは素晴らしい」と教えるなど以ての外である。過去を教訓にしなければ同じ事を繰り返してしまう。
 また、日本の多くの都市がほぼ焼け野原になるまで戦争を止められなかった理由は、当時の政府や軍関係者らの責任逃れ体質にもあるだろう。アメリカとの国力の差を直視せずに開戦した責任、戦局の悪化を直視せずに政府や軍に都合のよい大本営発表を繰り返した責任、戦局の悪化や無謀な作戦で出した大きな損害に関する責任。そんな責任から逃れ続けた結果が本土を焼け野原にするまで続けた戦争である。ポツダム宣言をもっと早く受諾していれば原爆を落とされることもなかっただろう(勿論原爆で市民を無差別に殺傷した米に責任が全くないとは言わない)。

 責任逃れをしていると、思わぬ大惨事を招くということも、日本が過去に経験した教訓の一つなのに、この国の政治家・役人・企業はなぜか責任逃れを重視しがちだ。

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