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オリンピックの政治利用、イメージ重視の政治観に感じる懸念


 2020年東京オリンピックの競技日程の詳細を、4/16に組織委員会が発表したハフポストの記事)。以前から話題になっていたマラソン競技の開始時間は朝6:00、競歩では5:30開始なんて日もある。早朝に競技を開始する理由ついて酷暑対策があげられていたが、屋外競技なのに日中に開催する場合も多々あり、整合性があまり感じられない。運動量を考慮した対応という見方もあるのだろうが、決して運動量の少なくないサッカー女子の決勝は11:00開始予定だし、マラソンと過酷さで大きな差があるとは思えないトライアスロンの開始時刻も7:30/8:30だ。そもそも、日本の7月が酷暑なのはこの数年に限った話ではなく、少なくとも10年前には似たような状況だったはずだ。酷暑対策が必要なら7月にオリンピックを開催すること自体が間違っていると言えそうだ。


 どんな時間に競技が開催されようがそれに合わせて体調を整え、競技に向けて調整して最高のコンディションで臨むのが本物・プロのアスリートだという側面もあるだろう。しかし、オリンピックとはプロの競技大会ではなく、アマスポーツの祭典ではなかったのか。また、東京オリンピックの誘致に際してアスリートファーストというスローガンを掲げていたのに、あれは単なる美辞麗句だったのかとも感じてしまう。
 昨年・2018年8/6の投稿「消された「日中の運動は控える」という注意喚起」で、NHKは高温注意報・熱中症対策に関して、甲子園中継が始まる前日までは「日中の運動は控える」と啓蒙していたにも関わらず、甲子園中継が始まった途端にそれを「涼しい服装で日傘や帽子の使用」に差し替えた事を指摘した。オリンピックの競技開始時間に見る酷暑対策のちぐはぐさ加減からも、選手の熱中症対策よりも別の事が優先されている、つまりアスリートファーストなんて間違っても言えない状況がオリンピックにはあるとしか思えない。
 では一体誰のどんな思惑が優先されているのかと言えば、スポンサー企業の利益や政治家の思惑が優先されているのだろう。勿論オリンピック開催には企業の資金提供、政治分野の協力が不可欠であることは理解するし、それはスポーツやオリンピックに限らず他の競技大会でも同じことだが、オリンピックは他の競技大会よりも注目度が高く、例えば1936年のベルリンオリンピックは、明らかにナチス政権によって国威発揚に利用されていたし、1980年のモスクワ大会・1984年のロス五輪は、冷戦下の東西対立を色濃く反映し両陣営によるボイコットがなされた。80年代のその2つのオリンピックでは再び「スポーツと政治の関係」が問われる事になり、その後は距離感を意識した大会が続いていたように思うが、例えば2018年の平昌冬季五輪では北朝鮮問題が色濃く反映されるなど、昨今再びその距離感が怪しくなっているようにも思える。
 そもそも政治家がオリンピックで目立つこと自体が好ましくなく、象徴であるべきは現役、若しくは引退したアスリートらだろう。更に、本来オリンピックは国が開催するものではなく、都市が開催するものであり前面に立つのは、政治家ならば都知事であるはずなのに、現在の日本の首相安倍氏は、前回の夏季大会・リオオリンピックの閉会式で日本の人気ゲームキャラクター・マリオに扮するパフォーマンスを披露するなど、オリンピックを政治的に利用している側面が強い。
 彼は、1977年に王 貞治さんが第1号として受賞し、これまでの26人と1団体に授与された国民栄誉賞のうち、1人でスポーツ選手を中心に7人にも賞を与え、国民栄誉賞の連発とも言えるようなこと(授与27例の内、安倍氏以外の授与は36年間で20例、安倍氏は6年間で7例)をしている。つい先日も現役引退を表明したイチロー選手に国民栄誉賞の授与を打診したそうだが、イチロー選手に辞退された(ハフポスト「イチローさん、国民栄誉賞を3度目の辞退 「人生の幕を下ろした時に…」」)。イチロー選手はこれまでにも2度ほど国民栄誉賞の授与を辞退している(2001/2004小泉政権)。彼は明示はしていないものの、時の政権に、自分が自分の為にしてきたことを利用されたくないという思いがあるのだろうと推測する。
 オリンピックに関わらず、イメージ戦略に使えるものは何でも使うという側面が強い安倍氏だが、嘘まみれの復興五輪というスローガン(3/21の投稿)のイメージアップを図りたいのか、先日の桜田五輪担当大臣の失言(4/12の投稿)を相殺したいのか、4/14に「聖火リレー出発に立ち会う」と言い出した(時事通信の記事)。
などからも安倍氏のイメージ戦略重視の姿勢はよく分かる。確かに若年層の政治への興味を喚起する必要性を勘案すれば、イメージ戦略が必要であることも理解はできるが、政策とはあまり関係のない「俺、○○の知り合いだよ?」的なイメージ戦略が多く見られ、果たしてそれが政治への興味喚起と言えるのか疑問である。


 オリンピックがスポンサー企業や政治に利用されていると指摘すると、必ず「嫌なら見なければいい」という趣旨の反論が少なからずある。2011年に芸人の岡村 隆史さんが「地上波放送はタダなんだから嫌なら見なければいい」という趣旨の発言を、自身のラジオ番組の中で行って批判を浴びた。これについては様々な見解があるだろうが、自分は、例えば差別・侮辱のような表現でもない限り、民放放送は基本的に「嫌なら見なければいい」ものだと思っている。放送局が放送の許可を優先的に受けている事を勘案すれば、それを大々的に言ってのけるのも横柄のように思えるものの、視聴率が下がる、つまり人気が下がれば事業を継続できなくなるわけで、他者の人権を明らかに心外するような内容でもない限り、「見ない」という方法で抗議の姿勢を示せばよいのではないか。ただ、当時岡村さんは「見ないとかSNSで言う必要もない」という趣旨の発言もしていたが、それには異論があり、「見たくない」という趣旨の意思表示をする権利は視聴者側にもあるだろう。
 しかし、オリンピックについては「嫌なら見なければいい」では済まないと考えている。何故なら、オリンピックの開催には少なからず国の税金が投入されている。自分は高額納税者ではないものの、少なからず税金を支払っており、オリンピックの賛否について主張する権利を、殆ど資金的に絡みのない民放の番組内容についてよりは持っている筈だ。また、日本で最もオリンピックのテレビ・ラジオ放送を行うのは確実にNHKだ。自分はNHK視聴料も支払っている。視聴料を支払っているのにNHKの放送について「嫌だから見ない」で済む筈がない。例えばこれがCSなどの有料放送局であるなら「契約を止めたらいい」で済む話だろうが、NHK視聴料には支払わないという選択肢が用意されておらず、契約を止める術はないし、だから「嫌なら見るな」という話は通じない。
 つまり、テレビ等受信機をもっている日本国民はオリンピックのあり方について批判する権利を有する立場にあるし、国の予算が少なからず投入されているのだから、テレビを持っていなくても日本国民であれば誰でもオリンピックのあり方を批判する権利を有する立場にある。「オリンピックが嫌なら見るな」と誰かが誰かに言うならば、是非NHK視聴料と税金を肩代わりしてから言ってもらいたい
 そのように、自分はオリンピックの出場選手ではないが、自分が支払っているNHKの視聴料や税金の一部が投入されているので、ある意味で言えばオリンピックの小口スポンサーのようなものだ。自分以外の日本国民全ても、有無を言わさずオリンピックの小口スポンサーにさせられていると言えるのではないか。にもかからず、首相が自分の人気取り、愚かな大臣の後処理の為に、そして復興五輪という羊頭狗肉の正当化の為に、アスリートファーストというスローガンの誤魔化しの為にオリンピックを、イメージ戦略で恣意的に政治利用するのは全く認め難い。



 オリンピックの政治利用に限らず、安倍氏のイメージ戦略重視の姿勢と強引な政権運営・与党運営を見ていると、制服や映画等を用いたイメージ戦略を重視し、その結果として一定の支持を取り付け、憲法の国家緊急権を悪用して独裁体制を確立し、その後戦争へと向かい、挙句の果てに障害者・ユダヤ人虐殺という大惨事まで引き起こしたナチス政権を連想してしまう。

 このブログでは再三に渡って書いているが、当時のドイツ国民もまさかナチスが独裁体制を確立させるとは思っていなかったからナチスが与党になれたのだろうし、虐殺を行うなんて思っていなかったから支持したのだろう。つまり最悪の事態は足音を立てずに近づいてくるもので、最悪の事態になってから気付いても遅い。

 安倍首相は2016年のG7・主要国首脳会議、所謂伊勢志摩サミットで、消費増税延期の大義名分を得ようとして「リーマンショック前の状況に似ている」という見解を示した。そんな主張を安倍氏がするなら、前段の話を根拠に自分はこう言いたい。今の日本は、
ナチス政権成立前夜のドイツの状況に似ている
と。流石に絶対に不味い状況とまではまだ言えないが、イメージ重視の政治、オリンピックの政治利用、当時のドイツで障害者等弱者への差別やユダヤ人への偏見がひろまりを見せたのと同様に、昨今日本では一部政治家までもが同性愛者を病気扱いし、韓国人や中国人への差別発言を行う状況などがあることを勘案すれば、少なくとも2016年が「リーマンショック前の状況に似ている」という話よりは説得力があるのではないだろうか。

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