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予算委員会とは「予算だけ」を審議する委員会ではない



 これは見ての通り、昨年「同性愛者には生産性がない」と言い放ち、 差別的だと批判されても尚、「一部分だけが切り取られた不当な批判」というニュアンスの意思表示を続けている(2018年7/25の投稿)杉田氏のツイートだ。
 「予算委員会は予算を審議をする委員会だ」という話は根本的・絶対的に不正確だ。その理由は後述する。そんな明らかな間違いを、杉田氏のようないい加減な議員が言いだしたのなら、勿論全く容認など出来る筈もないが、それ程不自然でもない。しかし、この話を主体的にしているのは杉田氏ではなく、自民党の国会対策委員長の森山 裕氏である。国会対策委員会とは、国会での活動の方針を決めたり、国会運営について他党と調整や折衝するために、各党に設けられている機関である。自民党のその機関の長である者が、予算委員会とは何か?について正しい見識を持ち合わせていないのは残念だ。というか、残念を通りこしてかなり危機的な状況である。


 アメリカには国務省という機関がある。英語では United States Department of State となる。「国務」とは国家の政務を指す。コトバンク/デジタル大辞泉では、日本国憲法では国政のうち、立法・司法を除き、内閣の権能に属する事務の総称と説明している。言い換えれば「国政全般」という意味だ。しかし、アメリカの国務省は国の政治全般を賄う機関ではなく、日本で言えば外務省に当たる(Wikipedia「アメリカ合衆国国務省」)。言うまでもなく外務省とは外交に関する役所だ。アメリカではそれを、外交を担当する機関なのに「国務省」と呼ぶ。因みに日本の外務省のトップ・外務大臣に当たる役職の名称も、「国務長官(Secretary of State of the United States)」だ。
 なぜアメリカでは実質的な外務省を「国務省」と呼んでいるのか。Wikipediaの「アメリカ合衆国国務省#歴史」でも紹介されているように、アメリカの国務省は、その名の通り、以前は外交だけでなく内政に関する役割も有する機関だったが、内政に関する役割を別の新設機関に委譲分割した結果、外交に関する役割だけが国務省に残り、実質的には外務省なのに今でも国務省と呼ばれている。
 アメリカ国務省は、名称の字面だけでその機関が持つ役割を判断するのが必ずしも正しいとは言えない、という典型的な例の1つだ。それは日本の国会の主要な議論の場・予算委員会も同じである。


 冒頭で、
 「予算委員会は予算を審議をする委員会だ」という話は根本的・絶対的に不正確
としたが、その表現だけに注目すれば、実は正確な表現とも言え、確かに日本の国会の予算委員会は主に国家予算について審議する場だが、しかし森山氏は、現在懸案となっている、6/3に金融庁が、95歳まで生きるには夫婦で年金以外に約2000万円の資産が必要になるとの試算を示し(日経新聞「人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書」)した件、それを麻生財務大臣や自民党が「不適切な文書で認められない」としていること(6/12の投稿)などに関して、野党側が予算委員会での審議を求めていることに対して、「予算委員会は予算を審議をする委員会だ」と述べ、更に、
 全てを予算委で議論する従来のやり方を少し変えていくことが大事だ
という見解を示しているので、森山氏の言っている「予算委員会は予算を審議をする委員会だ」という話は根本的・絶対的に不正確と断言できる。年金は国の社会福祉制度の根幹の1つで、その制度のあり方に問題があるなら何らかの対策を講じなくてはならない。対策を講じる為には予算が必要になる。つまり年金の問題は予算委員会での審議に馴染まないという話には合理性がない。
 また、杉田氏は「予算委員会はスキャンダルなどを追及する場ではない」とツイートしているが、スキャンダルだって、勿論その内容にもよるだろうが、充分に予算委員会での審議に馴染む内容だ。国会議員や閣僚・官僚らの給与はどこから出ているのかといえば、それは全て国家予算から支払われている。つまり、国会議員や閣僚・官僚が著しく資質に欠けているのに、国家予算から彼らに給与が支払われている恐れがあるのなら、その是非を予算委員会で審議するのには合理性があると言えるだろう。
 予算委員会とは、予算が絡む全ての事、 つまり国政に関する全ての事を審議する委員会である。だから「予算委員会は予算を審議をする委員会」だが、決して、

 予算委員会とは「予算だけ」を審議する委員会ではない


「予算も審議する委員会」「基本的には予算を審議する委員会だが、実質的には国政全般を審議する委員会」というのが適切な認識だろう。

 因みに、年金の問題は果たしてスキャンダルなのだろうか。杉田氏が何を指してスキャンダルと言っているかは定かでないが、彼女が時事通信の「予算委開催を否定=自民国対委員長」という記事を引用してそのようにツイートしているということは、彼女は
 老後の資金不足を指摘した金融庁報告書の問題=スキャンダル
と捉えているということだろう。 そもそもその認識自体がどうかしているとしか思えないが、杉田氏のような議員がそんな事を言っても大きな驚きはない。そんな議員を未だに抱えている自民党への不信感が更に膨らむだけだ。


 安倍氏の最近のお気に入りのフレーズは「悪夢の民主党政権」のようだが、その頃は自民党も野党だった。自民党も野党時代は、予算委員会で現在の野党らと同じように、狭義の予算に関してだけでなく広義の予算について、つまり国政全般に関して当時の民主党政権を追求していた。にもかかわらず、それを棚に上げて「全てを予算委で議論する従来のやり方を少し変えていくことが大事だ」なんて、一体どの口で言っているのだろうか。
 杉田氏が自民党の議員になったのは2017年衆院選からだし、初当選も現自民政権成立以降の2012年12月なので、100万歩程譲れば、野党時代の自民党の振舞いを知らないのかもしれないが(勿論そんなことを知らない者に国会議員の資質があるとは全く思わない)、現自民党国対委員長の森山氏は、自民党の公認を受けて初当選したのは1998年であり、野党時代の自民党を知らないなんて言い訳すら通用しない。
 自民党が、自分達の野党時代を棚に上げて素っ頓狂な事を言いだすのはこれが初めてではない。2018年1/26の投稿でも触れたように、自民党が野党時代に提案して実現した国会審議での与党2:野党8の質問時間配分を、「与党5:野党5にしろ」と言いだしたりもしている。

 つまり、自民党が、かれこれ60日以上(衆院に限れば100日強)も予算委員会での審議に応じないのは、政権の追及逃れを目的といした不当な姿勢と言われても仕方がない。

 過去に(野党時代に)自分達がどんな姿勢で国会審議に臨んでいたのかを忘れてしまう(棚に上げる)ような党が、政権を運営していることの方が確実に「悪夢」だ。

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