これまでに人気アニメを複数制作してきた京都アニメーションで放火事件が7/18に発生し、35名が死亡する大惨事となった(Wikipedia)。京都アニメーション第1スタジオに容疑者が侵入し、ガソリンを建物1階や従業員などにまいてライターで着火し、火災・爆発が発生した。建物は全焼、多数の被害者が出た事件だ。
この事件に付随して、根拠のない情報を元に嫌韓に結び付ける事案が発生したことを7/20の投稿で取り上げたが、今日の投稿では一部に見られる「ガソリンの販売に規制をかけるべき」という見解について書くことにする。結論から言えば、個人的には、
ガソリンの販売に規制をかけても同種の事件の抑止効果は低く、単に利便性を下げるだけになりかねないと考える。トップ画像は、IADE-MichokoによるPixabayからの画像を使用した。
京都アニメーション放火事件を受けたガソリンの販売規制検討に関して、新聞各社も記事を掲載している。
- ガソリン販売規制を強化へ…京アニ放火で京都市(読売・7/22)
- ガソリン販売の規制強化検討へ 京都市(産経・7/24)
- 京都市がガソリン販売の規制強化へ 京アニ放火を受け(朝日・7/25)
- ガソリン規制、強化へ議論 京アニ放火事件受け 身分・用途確認、厳格化求める(日経・7/27)
京都アニメーション第1スタジオで34人が死亡した放火殺人事件を受け、京都市消防局はガソリンを販売する際の規制強化に取り組む。ガソリンスタンドの経営者らが加盟する市危険物安全協会などに25日、購入者に運転免許証など身分証明書の提示を求めるほか、住所や名前、販売量、使用目的を記録するよう要請した(朝日新聞)というのが現時点の状況だ。
現在消防法では、販売店の従業員が給油する場合に限り、つまりセルフサービスのガソリンスタンドで自分で給油する場合を除き、携行容器へのガソリン販売が認められている。いくつかの条件はあるが最大200Lまで購入できる。購入希望者に身分証明書の提示を求めたり、購入目的を確認したりする法的な義務はなく、この規定が変化したわけではない。つまり現状でなされているのは、規制の強化ではなくあくまでも要請だ。恐らく多くの販売店が要請に応じるだろうが要請に応じる義務は生じない。要請はあくまでも要請であって、規制の強化が既に決まったかのような表現は言い過ぎだ。
読売新聞の記事には「条例による(身分証確認等の)義務化を検討する」とあり、検討が事実であれば、産経の「規制強化検討へ」や日経の「ガソリン規制、強化へ議論」が妥当な表現だろう。また日経は「厳格化求める」ともしており、「要請がなされた」という実状に最も近い。しかし、読売や朝日の見出しには「規制強化へ」とあり、あたかも規制の強化が既に決定したかのような印象になっている。これではミスリードを誘発する恐れがある。行政が規制の強化を決定したかのように報じられたら、それを見た人が「行政が決めたのなら妥当性が相応にある」と感じる率は上がるだろう。
決まっていないことが決まったかのように見える見出しを掲げるのにはそんな影響があるので、適切な表現を心掛けて欲しい。このような表現が増えれば、既存メディアもフェイクニュースを指摘できる立場でなくなってしまう。
一部には、ガソリンの販売は基本的に自動車への給油しか認められていない、と勘違いしている人もいるようだが、前段での説明や、Wikipediaのガソリン携行缶の項目を見れば分かるように、決してそんなことはない。また、短絡的に携行容器への給油の全面規制を主張している極端な人も見受けるが、なぜ携行容器への給油・ガソリンの販売が必要なのかと言えば、発電機や農機具で使用する為に携行容器への給油を必要とする人が少なからずいるからだ。自動車を運転する人は、ガス欠を起こしたことや、自分でなくとも起こした人がいると聞いた事くらいはあるだろう。つまりガソリンの携行容器への給油が出来なくなると、農家や発電機を用いる人達だけでなく誰もが不便を強いられる恐れがあり、全面規制は現実的でない。
前述の記事を読めば分かることだが、京都市が放火事件を前提に検討してるのは、ガソリンの携行容器への販売の全面的な規制ではない。販売の際に購入者の身分証・身元の確認、購入目的の確認の厳格化を検討している。しかし果たして携行容器へのガソリン給油に関して購入者の身分証・身元の確認、購入目的の確認を厳格化することに実効性はあるだろうか。率直に言って、携行容器への給油のみ身分証の確認・購入目的の確認を厳格化することにはあまり意味がないと断言できる。実効性に乏しいのに手間だけは増える為、つまりデメリットの方が大きく、適切な事件の再発防止策とは言い難い。
まず身分証の確認についてだが、いちいちコピーをとるのだろうか。コピーを取らずに提示させるだけでは記録にならず、例えば今回のような事件が起きた際の証拠にならない。目的の確認も同様で、それを書類に書いてもらったとして一体どうやってその裏取りをするのか。いくらでもいい加減なことが書けてしまう。全く抑止効果はないとは言わないが、手間が増える割にその効果は見込めずバランスが悪いとしか言えない。
また、携行容器への給油の際のみ購入者の身分証・身元の確認、購入目的の確認の厳格化しても、自動車への給油が今まで通りなら意味がない。自動車への給油の際に身元・購入目的の確認が免除されるのであれば、確認を避けたい者は自動車へ給油してもらい、後でポンプで携行容器へ移し替えればいいだけだ。つまり、確認の厳格化をするなら自動車への給油の際にも身分証の確認をしなければあまり意味がない。目的の確認も自動車運行の為と書けば済むことなので意味がない。ガソリンスタンドのセルフサービス化が進んでいる状況もあり、自動車への給油の際に身分証の確認を厳格化するのは、手間・コスト・利便性の面から考えても全く現実的でない。
付け加えておけば、京都アニメーションの放火事件については、朝日新聞「京アニ放火、浮かぶ計画性 ガソリン・ライター、現場近くで購入か」などで、まだ定かではないが、犯行の計画性が報じられている。犯行を事前に計画するような者なら、携行容器への給油が厳格化されていたとしても、自動車に給油した後にポンプを使用して携行容器へ移すくらいのことは簡単に思い付くだろう。なので、前述の記事で報じられているような、携行容器へのガソリン給油に関して購入者の身分証・身元の確認、購入目的の確認の厳格化をしても実効性に乏しく、悪用しない人の手間が余計に増えるだけの恐れが強く、決して妥当性のある対策案ではないと考える。
似たようなことはこれまでにもしばしばあった。2015年6月に走行中の東海道新幹線内で男性が焼身自殺を図り、それが原因で火災が発生し、巻き添えで1人が死亡するという事件が起きた際も、ガソリン等の販売に規制が必要ではないか?という話はあった。また、飛行機等のように列車に乗車する際も厳密な手荷物検査が必要なのではないかという声もあがった(Wikipedia:東海道新幹線火災事件#その他の影響)。しかし、同事件を受けてもガソリン等の販売規制にはつながっていないし、手荷物検査も、乗降客数/過密な運行スケジュール等を勘案すれば現実的でなく、それ以前と比べて大きな変化はない。
中には「その手の対策を行わないから同種の事件が再び起きた」と言う者もいるだろうが、ガソリンの携行容器へ給油をいくら規制したところで、自動車へ容易に給油できる状況があれば、前述のように殆ど意味がない。つまり現実的でなく効果が見込めないのでその種の対策がなされなかったのが、今の状況なのではないだろうか。
自分がこの投稿で言いたいのは「だから事件が起きるのは仕方ない」でもないし、「一切対策はする必要がない」でもない。自分が言いたいのは、
単純に規制を強化するという方向性は対策として有効でなく、別のアプローチで対策する必要性があるのではないかということだ。
この事件について、元維新代表の橋下 徹氏が「本当にやむを得ず自暴自棄になってどうしようもないっていった時には、僕は一人で死んでほしいですよ」とテレビ番組で発言し(スポーツ報知「橋下徹氏、京アニ放火事件で青葉容疑者へ「一人で死んで欲しい。他人を犠牲にしていいのか?社会でこういうことは言い続けるべき」」)、批判を浴びている。同じ様なことは5月に川崎で通り魔事件が発生した際にもあった(5/29の投稿、6/8の投稿)。犠牲になった人や遺族の怒りや悲しみ、それ以外の人も同様に感じる憤りが全く分からないわけではない。「人を巻き込まずに勝手に死ね」と自分も感じることもある。しかしそのような暴力的な言説を、果たしてテレビ番組のコメンテーターが公然としてもいいものか。程度の差はあれそれは容疑者が行使した暴力と似たような性質のものではないのか。そのような言説は目には目を、歯には歯をから進歩のない話であって、今社会に存在している容疑者予備軍を煽るだけにしかならないのではないか。
「勝手に死ね」「生まれつきの不良品」のようなことを言う者は、再発の防止や対策にはそれほど興味もなく、単に感情的に言いたい事を言っているだけ、つまり事件に対するコメントとして方向性を見誤っているとしか思えない。橋下氏は、前述の発言の前に「一般論として、悩んでいる人をしっかり支える社会システムを必要なのは当たり前のことです」と言っている。あたかも自分は適切な認識を持っていると言いたげだが、「一般論として」と前置きしたということは、あくまでそれは一般論だが、自分はやはり一般論とは異なり「死にたけりゃ一人で勝手に死ね」と思っている、だからそう強調したい、ということの表明だろう。多くの人がそう感じるから批判が集まっているのだろう。
悩んでいる人をしっかり支える社会システムが必要なのは、理想論でもなんでもない。少なくとも実効性の薄い携行容器への給油厳格化よりは現実味のある話だ。臭いモノには蓋をすればよいと思っている人達が現在の日本には多いようだが、そんなのは付け焼刃、やってる感の演出の場合が殆どだ。厳しく言えば、ガソリン販売規制の検討だってその1種でしかないだろう。
メディアもメディアで、京都市がガソリンの携行容器への給油規制強化を検討していることについて書くのなら、自動車への給油も規制強化しなければ実効性が薄いことくらい指摘したらどうなのか。