フジテレビが6/2に放送したワイドナショーの中で、5/29の投稿「「死にたきゃ勝手に死ね」の危険性」でも取り上げた、5/28の朝に川崎市で起きた通り魔事件を取り上げ、それに関するコメントとして、同番組の主要な出演者の1人である松本 人志さんが、
人間が生まれてくる中で、どうしても不良品というのは何万個に1個はしょうがないと思うと、事件を起こした犯人が先天的な異常者として生まれてきたかのような発言をして各所から批判が集中した(女性自身「東ちづる「人間に良品も不良品もない」松本人志の発言に異論」)。
しかも、同番組の裏でTBSが放送したサンデージャポンでも同じ事件を取り上げ、同番組のMCを務める爆笑問題・太田 光さんが、高校生の頃に「何も感動できなくなった」経験があることや、
そういう時に『これはこのまま死んでもいいな』っていうぐらいまで行くんだけど、そうなっちゃうと、自分もそうなら人の命も大切には思えないという当時の心境について話し、
俺は、すぐ近くにいると思う。彼のような人がと発言しており(ハフポスト「爆笑問題・太田光「きっかけさえあれば…」 "もう、死んでもいい"から立ち直った経験を告白【川崎殺傷事件】」)、そのコントラストの強烈さが際立った。
松本さんは各所からの批判を受けて次のようにツイートしている。
凶悪犯罪者は人として不良品。— 松本人志 (@matsu_bouzu) June 2, 2019
ひきこもりが不良品?誰の意見?
人を先天的な不良品として扱う事が批判されているにもかかわらず、あたかもひきこもりを不良品としたことを批判されているかのような認識で、相変わらず犯罪者は先天的な不良品とも受け取れる主張を繰り返しており、的外れとしか言いようがなく、これでは議論など成り立たないとしか思えない。自分には、彼が誰かを不良品として扱うのなら、人を不良品として捉えることの出来る松本さんの方が寧ろ「不良品」であるように思えてならない。
人間に先天的な良・不良があると捉えるのは、ナチスドイツや日本で90年代まで存在した法律・優生保護法の背景にあった優生思想と同種の思考と言えるのではないだろうか。しかも彼は、
それを何十万個、何百万個に1つぐらいに減らすことは、できるのかなって、みんなの努力でとも言っている。ユダヤ人や障害者を劣等として虐殺したナチスドイツや、障害者に強制不妊手術をするに至った優生保護法を連想するな、と言われてもそうすることの方が難しい。
この件に関して、昨日・6/7にフジテレビの石原 隆取締役が定例会見で見解を示したそうだ。共同通信「フジテレビ「差別意図なかった」松本人志さんの「不良品」発言」」によれば、石原さんは、
(差別の意図がないと)伝わるだろうと思い放送したが、批判は受け止めると述べたそうだが、在京キー局、つまり国内で最も主要なテレビ局の1つの経営者がこの程度の認識でしかないことにただただ驚愕する。
- 尻には触れたが痴漢する意図はなかった
- 殴ったがあくまでも躾で虐待する意図はなかった
- いじりのつもりでイジメている意図はなかった
- ナイフで刺したが殺すつもりはなかった
また、昨今政治家らは発言の不適切さを指摘されると、軒並み「誤解を招きかねない発言をしたことをお詫びする」「そのような意図はなかった」などと言い逃れる。率直に言って、遠回しに「発言を誤解されて心外だ」と言っているようにしか見えない。そもそも政治家という議論・言論表現を主な生業とする人間が、誤解されるような発言をしたと認めること自体が「私には政治家として充分な言論表現能力がありません」と言っているようなものなのだが、なぜ恥ずかしげもなくそんな事が言えるのか。そして自民・麻生氏や桜田氏、稲田氏、維新・足立氏などのように、何度もそれを繰り返す事ができるのか。それはつまり「はいはい、形式上謝っておけばいいんでしょ?」と思っているからで、反省などこれっぽっちもしていないと思われても仕方がないだろう。
フジテレビの取締役が言う「差別の意図はなかった」も、前述のような言い逃れと大差ないと言えるだろう。なぜなら同番組が物議を醸すのはこれが初めてではないからだ。松本 人志さんの発言に関してだけ数えても前例は複数ある。2018年10/29の投稿や11/5の投稿でも触れたし、その後にもセクハラ発言で批判を浴びている(ハフポスト/オリコンニュース「指原莉乃、松本人志の「体を使って」発言に反応 「干されますように!!!」」)。
同番組は「この番組は普段スクープされる側の芸能人が個人の見解を話しに集まるワイドショー番組です」というコピーを掲げているが、それは「何を言っても構わない」という免罪符にはなり得ない。ワイドショーと言えど、松本さんが所謂お笑い番組やイベントでのネタ披露の中で、ブラックジョーク的にそのような発言するのとは状況が異なる。またブラックジョークとしてそのような発言をするにしても、決して「差別的な意図」でその発言をしているのではなく、ブラックジョークであることが大半の人に理解できる形式でなければ批判を受けるのは当然の事だ。
番組の主要な出演者である松本さんの同番組での発言は、以前から、斜に構えて人とは違う事を言う事だけに拘り過ぎているように見え、出演する他のゲストもその路線に引っ張られる傾向があるように感じられたが、似たような問題視される発言が繰り返されていることを勘案すれば、フジテレビ取締役の「批判は受け止める」というのは、つまり「批判があるのは知っているが、だからといってそれでどうこうすることはない」という意味なのだろう。つまり放言を述べる>批判を受ける>形式的な謝罪と撤回を繰り返す麻生氏と同じ状況だ。
因みに麻生氏は、昨日の投稿でも触れた、金融庁が、95歳まで生きるには夫婦で年金以外に約2000万円の資産が必要になるとの試算を示した(日経新聞「人生100年時代、2000万円が不足 金融庁が報告書」)ことや
100まで生きる前提で退職金って計算してみたことあるか?普通の人はないよ。そういったことを考えて、きちんとしたものを今のうちから考えておかないかんのですよ(テレ朝ニュース「退職後2000万円不足も 麻生大臣 資産形成考えて…」)などのとした自身の見解などについて、部分的に「不適切だった」との述べたそうだ(BuzzFeed Japan「老後に「2000万円が不足」とした金融庁に高まる批判と社会不安 麻生氏が釈明」)。2018年12/12の投稿で麻生氏のこれまでの不適切な発言をまとめ、
麻生氏は現在78歳。なぜ麻生氏は「放言」を言う?のかと言えば、麻生太郎(78歳)は脳のブレーキがきかなくなっているからと皮肉った。何度放言>謝罪撤回を繰り返しても、彼の態度や表現には全く変化がなく、2/5の投稿でも再び麻生氏の馬鹿げた発言を取り上げた。当然と言えば当然だが、その後も彼の態度には一切変化はない。
麻生氏は「脳のブレーキが効かなくなっている」 を裏付ける案件がどれだけ増えても、首相と自民党は彼に大臣を続けさせる。そして国民もその党を選挙の度に選ぶ。日本オワコン説の信憑性が増すばかりだ。それに比べたら松本 人志さんやフジテレビが似たり寄ったりな状況であるのも大して不思議ではないが、国のNo.2の政治家や、業界でかなり大きな影響力をもつタレント、そしてキー局の1つがそんな状況であることは、日本の終わりの始まりが既に始まっていることを強く感じさせる事態である。このような状況では、彼らが関わる国会や記者会見、そして当該テレビ番組で「議論」が成り立つのかと言えば、そんなのは到底無理だと思える。
この松本さんの「不良品」発言に関して、リテラは「川崎殺傷事件「不良品」発言こそ松本人志の本質だ! 過去にも同じ発言、社会や弱者への決定的な想像力の欠如」という記事を掲載し、同番組に出演していた堀 潤さんと古市 憲寿さんも、懸案の「不良品」発言を批判せずに乗っかった、として批判している。これに対して堀 潤さんは、
書き手のバイアスが強いリテラ。結果、事実と異なる論評で人を貶める。ただ、ブーメランのようにリテラはメディアとしての信頼を失っているけど。取材をしていればこうした文章にはならないし。これまで僕の友人や知人が読み物になってきたのをみてもそう思う。— 堀 潤 JUN HORI (@8bit_HORIJUN) June 8, 2019
※写真は内容とは関係ありません pic.twitter.com/2FZgyXqqWs
とツイートし、自分は批判せずに同調したわけでないとしている。リテラの書き起こしによれば、堀 潤さんは
松本さんが言ったことって超クリティカルなポイントで、アメリカでもテロを未然に防ぐことっていうのは捜査当局も自信をもっているんですよ。前後の文脈が分かるから。でも、なにかしら突発的に起こる、しかも心に負担が強いられている状況で起きるものに関しては事前にリストアップして踏み込んで、でもなにもやっていない状況で未然に逮捕するのかっていうと、それは極めて人権を損害する行いだと。と発言したそうだ。
ただ一方でそれを放置していたときに多数の犠牲者が出る。じゃあ、この天秤どうなっているんだというのは、まだねしっかりと本音で議論してないと思うんですよ。でも、じゃあどうすればいいんだっていうのは恐れずに議論していくべき。やっぱり沈黙している社会は犠牲者を生むし、だから、勇気ある議論を(するべき)
彼のツイートを見ていると、彼が「クリティカル」という表現を使ったのは、「危険な」というニュアンスなのだそうだ。もしそれが事実で後付けでないのであれば、「松本さんが言ったことは超危険な点で、」と言った事になるだろう。そうであれば彼は松本さんの発言を牽制したようにも思え、リテラの記事による指摘が妥当であるとは言い難いが、その後の発言から「クリティカルは危険という意味」というニュアンスを感じることは少し難しい。強いて言えば「なにもやっていない状況で未然に逮捕するのかっていうと、それは極めて人権を損害する行い」という表現からそれを感じることが出来そうだが、その後に「放置していたときに多数の犠牲者が出る」と続けており、堀さんは松本さんの主張を批判もしなければ同調もしていないというのが事実なのではないだろうか。
そんな風に考えれば、前述の通り、リテラの記事などが言っている「堀 潤は、懸案の「不良品」発言を批判せずに乗っかった」とは言えないようにも思える。しかし、なぜ堀さんは「危険」と言わずに「クリティカル」としたのかという疑問も残る。彼が松本さんの「不良品」という発言は適切とは言えないと思っていたのなら、はっきりと「危険」と指摘するべきだったのではないか。カタカナ語を多用する小泉都知事と同様に、「クリティカル」という表現を敢えて使うことでお茶を濁したと言われても仕方がないのではないだろうか。
自分の知る限り、堀 潤さんは自分のスタンスをメディア上では積極的に示そうとしない人物で、他人の主張についても、たとえそれが差別的・偏見に基づく主張である疑いが強くても、明確に否定しない人物だ。彼はジャーナリストであり、出演する番組等や取材を通じてどんな主張も分け隔てなく伝えていくのが重要と考えているようで、彼のそのスタンスは、いろいろな人に拒否されずに主張を引き出す為には、確かに有効かもしれない。彼がMCを務めるMXテレビ・モーニングCROSSを自分はほぼ毎朝見ており、彼のそのスタンスのおかげで他局では見られない主張や意見が引き出されることをしばしば実感もしている。
しかし、彼のそんなスタンスを肯定的にだけ捉えているわけでもない。彼はモーニングCROSSに寄せられる視聴者ツイートに対してしばしば「いいね」をする。肯定でなくてもメモ的に「いいね」すると彼は公言しており、どう考えても「いいね」と思ってはいないであろう「いいね」をする。もし彼がそれを本当に「いいね」と捉えているのなら、彼の人間性を疑うようなツイートにも「いいね」をする。
以前は自分も「自分とは異なる主張を見る機会になる」と感じ、それを肯定的に捉えていたのだが、先日同番組でSNSでの「いいね」が話題になった際に、複数の視聴者らが「堀さんからのいいねは嬉しい」とツイートしており、肯定の意図がない「いいね」も、受け取る側は肯定として受け止めている場合があることが、以前から感じてはいたが、その1件で明確になった。
自分は、もし彼が本当に「いいね」と捉えているのなら、彼の人間性を疑うようなツイートに「いいね」をしている場合、彼は肯定的な意味合いで「いいね」をしていないと信じている。しかし、受け手がそれを肯定的に捉えるということは、堀さんが適切とは言えない主張を助長してしまっている側面が少なからずあると言えるだろう。積極的に堀さんが不適切な主張に加担しているとは言えないだろうが、果たして彼のスタンスに本当に問題はないのかについては、写真家・ケビン カーターさんのピュリッツァー賞を受賞した写真「ハゲワシと少女」(ナショジオ「ここがスゴイ! ピュリツァー賞受賞写真 第3回 ピュリツァー賞が与えた影響」)に投げかけられた賛否と似たような疑問を感じている。
つまり、堀 潤さんが、松本さんの「不良品」という表現について、「クリティカル」ではなく「危険」という明確な日本語で見解を示していれば、リテラの記事のような誤った認識を生むこともなかっただろうと感じる。
彼はワイドナショーでの発言の中でも「議論」という表現を繰り返しているし、モーニングCROSSの中でもしばしば「議論しましょう」と述べる。「議論」をするには思考を論理的に組み立てる必要がある。言いたい事を言い合うだけの状態は決して「議論」とは呼べない。ワイドナショーでは「議論」が成り立たなさそうなのは前述の通りだし、モーニングCROSSで画面表示される視聴者ツイートにも、到底「議論」と呼べるレベルに達していないものも多い。また同番組に出演するコメンテーターの中にも議論というレベルに達していない主張をする者もいたりするので、彼のスタンスで「議論」をお題目のように唱えてしまうと、議論とは到底言えないレベルの主張、つまり明らかに合理性を欠いた主張、場合によっては偏見や差別的な誌主張を公然とする者に「自分達の主張は議論の範疇である」という誤解を与えかねない。