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不寛容な国、ニッポン


 CSのTBS NEWSをつけていたら、「おもてなしの国と呼ばれる日本」のようなフレーズが聞こえてきた。集中していなかったのでうろ覚えだが、「オリンピックも近いし外国人訪日客をもてなそう」的な内容だったように思う。
 この投稿の導入としてそれを取り上げようと思い、TBSニュースのサイトで詳しく確認しようとしたところ、当該記事が見当たらない。昨日の投稿で、テレビは引用し難いしアーカイブ性も低いということについて書いたばかりだが、テレビでの出演者らの発言を断片的に取り上げたネット記事が出回ることは、やはりテレビのそんな特性によって引き起こされる側面があることは否めないとも言えそうだ。
 TBS NEWSでは「おもてなしの国と呼ばれる日本」のようなことを言っていたが、誰が日本をおもてなしの国と呼んでいるのだろうか。果たして本当に呼ばれているのか?と思って検索してみると、「海外から見た、世界の「おもてなしが最高な都市」ランキング」(Cosmopolitan)という記事がヒットした。この記事は2018年4月の記事で、一応東京が7位にランクインしており、アジアではトップなのだそう。


 一方「【考える広場】「おもてなし」の国 日本」(東京新聞)という記事もあった。その中で、エッセイストの能町 みね子さんは「日本はおもてなしの国」ということに懐疑的な見解を示している。そもそも「おもてなし・もてなす」とはどのような意味だろうか。 コトバンク/大辞林の「もてなす」によると、その意味はいくつかあるようだが、御馳走を出すなどして、心をこめて客を接待するが、この場合の「もてなし」に最も合致した意味のように思う。
 「日本はおもてなしの国」という話と同じぐらい「日本人は親切」という話もよく耳にする。これを聞くたびに自分は「本当?」と疑ってしまう。確かに「落とし物が返ってくる」とか「道を聞いたら教えてくれる」など、他地域・他民族と比べても比較的親切な側面はあると言えそうだが、その一方で、例えば先進7か国中唯一同性婚(若しくは準ずる)制度がない、難民の受け入れに消極的など、不寛容な側面も確実にある。「日本人は親切」は間違いではないが正確でもない


  7/21に投開票された2019年参院選にて、重度の障害を持つ舩後 靖彦さんと木村 英子さんが当選した。彼らが当選したことによって参議院本会議場のバリアフリー化工事が行われたが、24時間介護を要する彼らが登院するにはそれだけでは不十分で、彼らが登院するのに必要な介護者等の費用をどう負担するのかという議論がされていたが、当面の間は参院が負担することになった(時事「介護費、参院が当面負担=れいわ2氏の議員活動」)。
 そもそも何故介護費用の負担が議論の対象になったのかと言えば、重度訪問介護の利用要件を定めている厚生労働省告示では、「通勤、営業活動等の経済活動に係る外出、通年かつ長期にわたる外出及び社会通念上適当でない外出を除く」という制限が設けられているからだ(BuzzFeed Japan「なぜ仕事中や学校でヘルパーが使えないの? 障害者を生きづらくさせている日本の障害福祉制度」)。簡単に言えば、報酬が発生する仕事中や通勤・通学、学業などでは、重度訪問介護は使えないことになっていて、厚生労働省は議員活動を「経済活動」と見なし、公費負担の対象でないとしたからだ。
 舩後さんは選挙活動の中で
 障害者が仕事を持つことこそ自立支援だと思います。それなのに、歩けない人のお手伝いがなぜ法律で禁じられているのか。全身麻痺でも働ける障害者はいます。能力はあっても国の法律で制限されても良いのでしょうか?
と訴えていた。家でおとなしくしていれば公的な訪問介護サービスが受けられるのに、仕事をしたり学校に行こうとするとそれが受けられず、自費負担するしかなくなる。厚労省は、「就労中の障害者の支援については、就労で恩恵を受ける企業自身が支援を行うべき」「個人の経済活動に対して障害福祉施策として公費負担で支援を行うことについては、個々の障害特性に応じた職場環境の整備(ヘルパーの配置等)などの支援の後退を招くおそれがある」などの見解を示しているそうだが、企業に全面的な支援を求めれば、企業はより負担の少なくて済む軽度の障害者か健常者を優先するだろうし、支援を行わないことが後退を招いている側面の方が大きいのではないだろうか。
 「重度の障害を持つ者が無理をして負担の大きな議員活動をしないで済むように、健常者の政治家がその代弁をすべき」という旨の主張をしている者をしばしば見かけるが、自分はこれまで彼らが訴えた問題を認識していなかったし、何故認識していなかったのかと言えば、健常者の政治家らがこれまで彼らの代弁をしてこなかったからだろう。「口も満足に聞けないような者国会議員が務まるのか」なんて心無い言葉を吐く者もいるが、彼らは議員になっただけで、これまで多くの人が認識していなかった問題を顕在化させたのだから、初登院する前から既に議員としての役割を果たしていると言えそうだ。


  舩後さんと木村さんの介護費用負担について、維新・松井氏は


とツイートしている。共同「維新代表、介助費「自己負担で」初当選のれいわ議員に」によると、彼は「どなたにも適用できるよう制度全体を変えるならいいが、国会議員だからといって特別扱いするのは違う」「国会議員は高額所得でスタッフも付く。政治家は個人事業主だから、事業主の責任で(費用支出に)対応すべきだ」などとも述べたそうだ。
 国会議員だから特別扱い、という彼の認識は果たして正しいのか。2人の介護費用を、厚労省の方針に反して参院が負担することを、国会議員の特別扱い、と認識している彼の主張は、一見適切にも見えるかもしれない。しかしよく考えて欲しい。これが特別扱いなのだとすると、彼は家でおとなしくしていれば公的サービスを提供するが、仕事や学校に行くことにはサービスを提供しないという厚労省の方針について、彼は少なくとも「ルールはルールだから守れ」と言っていることになるだろう。更に言えば、彼は「厚労省の方針は間違っていない」とさえ思っているかもしれない。
 厚労省(行政)の方針がおかしければ、参院(立法)がそれに対して異議を唱えることは何もおかしくない。今回の参院の判断は「当面の間」という、やや玉虫色の判断ではあるが、この判断が今後彼らだけでなく、全ての24時間介護が必要な重度の障害者に関する問題の解消につながるかもしれない。そのような可能性に注目せずに「ルールはルールだから守れ」と言ってる者は果たして「親切」と言えるだろうか。「おもてなしの国」の政治家と言えるだろうか。政党要件を満たす主要政党の代表がこんな態度を示す国の一体どこが「おもてなしの国」なのだろうか。


  4月の統一地方選で松井氏と立場を入れ替えるかたちで当選を果たした維新の吉村 洋文大阪府知事も、前述の松井氏のツイートを引用し、


とツイートしている。因みに、維新の創設者である橋下 徹氏も、肯定とは限らないが、この吉村氏のツイートをリツイートしている。


 7月の参院選へ維新の公認を受けて出馬する予定だった長谷川 豊氏は、2月に講演の中で差別的な発言を行ったとして公認を取り消された(毎日新聞「差別発言 元フジアナの長谷川豊氏が差別発言 参院選擁立予定の維新は処分検討」)。彼は2016年9月に「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルのブログを投稿した人物でもある(ねとらぼ「全国腎臓病協議会が長谷川豊に撤回と謝罪を求め抗議文を送付 人工透析患者に関するブログ記事の件で」)。結局維新は長谷川氏と大差ない差別意識を持つ者が党幹部を務めていると言わざるを得ない。


 このような考え方の背景には、確実に所謂自己責任論があるだろう(参考:Within news「貧しいのは本人のせい?エリートに広がる「自己責任論」、越えるには」)。東京大学名誉教授・社会学者の上野 千鶴子さんは、2019年4月の東大入学式の祝辞の中でこう言っている。
 あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます
また、この投稿で紹介したBuzzFeed Japanの記事を書いた岩永 直子さんは、7/29に次のようにツイートしている。


このツイートを読んで、7/18の投稿「「自分にとって重要でないことは誰にとっても重要でない」は深刻な思い違い」で書いた、将来的に自分や自分の子どもや孫が少数派になるかもしれないという事を考慮出来ずに、少数派を軽視するのは愚かな行為である、という話と共通点があるように感じた。他人を尊重しない/出来ない人は、他人に尊重されない。これだけは間違いない。慈悲をかけてくれる神や仏のような人もいるかもしれないが、多くの人は神や仏のようにはなれない。自分が他人にしたことは、必ずその内自分に跳ね返ってくる。自分に返ってこなくとも、自分の子どもや孫に返ってくるかもしれない。つまり他者を切り捨てるということは、自分や自分の子や孫が将来的に切り捨てられる対象になる種を蒔くようなものだ。


  プロレス団体・DDTプロレスの公式ツイッターアカウントが、7/29にこんなツイートをした。


プロレスの興行で、子連れリングに上がるという行為は、観客は概ね派手なプロレス技を期待して見に来ている筈なので、 これまでの常識に照らして考えれば、明らかにあり得ないと言えるだろう。しかしこのムービーを見る限り、文句を言っている者は見当たらない。もしかしたら中には維新の松井氏や吉村氏のように、「DDTはこんなことを認めるなんてどうかしている。子連れでリングに上がるのであればチケット購入時にまずそれを明記すべきだ!」みたいなことを言っていた客もいたかもしれない。但し、この会場でそんなことを声高に叫べば、「なんて寛容さに欠けているんだ…」と白い目で見られるのは必至だっただろう。
 2017年に熊本市議会で、女性の議員が子連れで議会に出席して問題視されたという件があったが(2017年11/23の投稿)、このムービーを見れば、それが如何に馬鹿げているかが分かる。また、重度の障害を持ちながらも当選を果たした議員に対して、不寛容な言説を投げかけることが如何に愚かであるかも分かるだろう。

 誰かに不寛容な態度を示せば、自分にもその内不寛容な態度が示されることになる。



  最後に付け加えておくと、BuzzFeed Japan「「国会議員がどう接するか楽しみ」 重度障害者の木村英子さん、たくましく喜びの声」によれば、木村 英子さんは、当確を受けた記者会見の中で「議事に健康上の問題があれば欠席しても構わないとか、対応に見えて実際は排除することも考えられる。そういうことに直面したときにどう対応するのか」と問われ、次のように述べている。
 排除された場合は、無理やり入っていきます
 ただ、どういう差別をそこでされるかわかりませんけれども、楽しみなところは障害者の方と接したことのない人たちが世の中は多いですから、国会の議員さんたちがどんな風に私と接してもらえるか。それを今、楽しみにしています

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